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ヤマーンタカ親近行

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金剛バイラヴァ一尊

ヤマーンタカの親近行

2010年10月、南インドのゲルク派大本山デプン寺を訪れ、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師の御指導を受けながら、「ヤマーンタカ一尊法」の親近行を実修しました。
そのときの体験やデプン寺の様子などを、数回に分けて紹介したいと思います。ただ、具体的な行法内容については、密教に関することなので、インターネット上に公開できません。この点をあらかじめ御承知のうえ、軽い気持ちで読んでいただければ幸いです。


 
 まず、ヤマーンタカについて、少し説明しましょう。ヤマーンタカgshin rje gshedは、仏陀の智慧の体現者である文殊と一心同体の本尊です。死神の閻魔大王を調伏するために、恐ろしい忿怒の形相を現わしています。深い意味で解釈すれば、閻魔大王は生死輪廻をもたらす無明の象徴であり、それを調伏するというのは、空性を覚る智慧によって無明を断滅することにほかなりません。激しい忿怒の行相でそれを行なうというのは、密教の強力な手段によって速やかに無明を根絶し得ることを示すものです。一般的な意味で解釈すれば、ヤマーンタカの絶大な威力により、四魔を始めとする修行の障礙を取り除くという趣旨になります。

 ヤマーンタカは、日本の密教の枠組みでは、大威徳明王に相当します。しかしチベット密教では、主に無上瑜伽タントラの本尊と位置づけられています。グヒヤサマージャ(秘密集会)などの行法では、守護輪の十忿怒明王の筆頭がヤマーンタカとなっています。ニンマ派のマハーヨーガ成就部では、八大本尊の筆頭にあげられています。

 ヤマーンタカを主尊とする行法には、黒ヤマーリdgra nag、紅ヤマーリgshed dmar、金剛バイラヴァrdo rje 'jigs byedの三種類があります。それらの中でも、特に金剛バイラヴァは、宗祖ツォンカパ大師の守護尊であるため、ゲルク派密教の三大本尊の一つとして極めて重視されています。金剛バイラヴァは、水牛の忿怒相を中心とする九面、三十四臂、十六足という、非常に複雑な姿をしています。そうした姿にも、様々な象徴的意味が込められているのです。

 ゲルク派密教で金剛バイラヴァがよく実修されるのは、宗祖と宗門の守護尊と位置づけらるからですが、他にも理由があると思います。それは、金剛バイラヴァの生起次第・究竟次第の行法が、グヒヤサマージャ聖者流に近似しているからです。ゲルク派密教の究極は、あくまでグヒヤサマージャ聖者流ですが、その理論をよく学んだうえで、より簡潔な金剛バイラヴァを実践する・・・というスタンスが可能なわけです。

 金剛バイラヴァの行法にも、十三尊lha bcu gsum maと一尊dpa' bo gcig paの二種類があります。前者は、金剛バイラヴァ父母尊を中心とした十三尊の曼荼羅を修習するものです。後者は、曼荼羅の中心に主尊金剛バイラヴァだけを生起し、それも母尊を伴わない単独の行相で修習します。そのような一尊の在り方は、無上瑜伽タントラとしては極めて珍しいものです。少し専門的な話になりますが、「母尊や眷属諸尊がいなければ、楽空無差別や処加持を修習できないのでは」という疑問が生じるかもしれません。しかし、宗祖の直弟子であるケートゥプ大師の解説などによると、それらの要点は一尊の行法にも全て揃っているといいます。

 時間を要する曼荼羅最勝王を省きつつ、グヒヤサマージャ聖者流に近似した形で無上瑜伽タントラのエッセンスを実修できるという点で、金剛バイラヴァ一尊の行法は大変貴重なものといえるでしょう。また世間的な役割りを考えると、息災など四事業を修法する際の本尊として最適だという特長もあります。そのようなわけで、金剛バイラヴァ一尊は、ゲルク派密教の秘法として宗祖から連綿と師資相承され、今日まで大切に守り伝えられてきたのです。今回私が実修したのも、この金剛バイラヴァ一尊の行法です(以下の文章では、「ヤマーンタカ一尊」と略記します)。


 だいぶ堅い話題になってしまったので、南インドの旅について少しお話ししましょう。大本山デプン寺が再建されたムンゴットは、カルナタカ州の北部にあります。フブリという地方都市から南南西約50キロ、デカン高原に広がる農村地帯に位置しています。行き方は、いろいろ選べます。アラビア海沿いのビーチリゾートとして有名なゴアから西ガーツ山脈を越えるルートは、鉄道でも道路でも、変化に富んだ素晴らしい景色を楽しめます。けれども、かなり時間を要するのが難点かもしれません。一番早いのは、ムンバイ(ボンベイ)かバンガロールから飛行機でフブリまで行く方法だと思います。バンガロールとフブリの間には、列車もたくさんあります。

 今回の私の往路は、デリー→バンガロール→フブリというルートです。インドを個人で旅した経験のある方ならよく実感できると思いますが、インドでは何事をやるにも時間がかかるし、大変疲れます。そのような疲労が重なると、不慣れな気候や飲食物などの影響で体調を崩すことになります。私は、与えられた短い日数の中でヤマーンタカの修行を結願する必要があったので、体調管理には万全を期さなければいけません。だから、なるべく快適で速やかに移動するように心がけました。「速やかに」といっても、時刻表上の最短時間でプランを立ててはダメです。というのは、飛行機などが大巾に遅れたり、乗り継ぎに思わぬ手間を要することが、インドでは日常茶飯事だからです。時間にゆとりをもち、焦ったり心配したりしないで済むようなプランが、結局一番快適で早いのかもしれません。

 インドまでの国際線は、デリーへ昼頃に着いて入国できるフライトを選びました。そして夕方に、国内線でバンガロールまで行きます。インドの国内線には多くの航空会社が参入していますが、ダラムサラやフブリへ行く便を運行しているのは、キングフィッシャー・エアラインズだけです。だから、チベット仏教の関係者にとっては、この航空会社が一番馴染み深いかもしれません。私の感じでは、キングフィッシャーの機内サービスは中程度ですが、地上スタッフは非常に親切です。私のように不慣れな外国人にとって、これは大変有難いことです。

 バンガロールの空港は、最近完成した新しいもので、周囲にはほとんど何もありません。私はここで一泊し、翌朝のフライトでフブリへ向かいます。インターネットで予約できるホテルのうち、空港から一番近そうなところを選んだのですが、それでも車で30分ほどかかりました。そのホテル、ネットで見ると凄く豪華な感じなのに、値段がかなり安い。「変だなぁ」と不思議に思っていたのですが、実際に見て納得。エレベータも無い古い建物を、丁寧に改装を重ねながら使っていたのです。私はそういうレトロな雰囲気が好きだから、ちょっと得をした気分です。

 バンガロールからフブリまでは、プロペラ機に乗ります。ATR72という小型機です。ジェット機より飛行高度が少し低いため、窓から地上の様子がよく見え、デカン高原の雄大さを実感できます。1時間弱でフブリに到着。フブリは、相当大きな地方都市なのに、空港はとても小規模です。定期便は一日1往復だけ。短い滑走路に、小ぢんまりとした空港ビル。飛行機のタラップを降り、徒歩で到着ロビーへ向かいます。空港ビルの外に、力士のような堂々たる体格のお坊さんが見えました。シェーラプ・ドルジェ師です。チャンパ・リンポチェのシャプチ(高僧にお仕えする役目)を長年務めていて、私も随分色々とお世話になっています。今年(2010年)の春、リンポチェに随行して日本へ来ているので、ポタラ・カレッジの会員・受講者なら御存知の方も多いでしょう。

 とにかく、無事にシェーラプさんと出会えて、ひと安心です。一緒にチベット人運転手のタクシーに乗り込み、フブリ市内の食堂に立ち寄って腹ごしらえ。こういう大衆食堂では、チャイとマサラ・ドーサが美味しいです。ここからは、一路デプン寺へ向かいます。フブリからデプン寺までのルートは幾つかありますが、今回はイェールプールへ向かう幹線道路経由となりました。デーヴィーコッパという村で左に折れ、そこからは細い農道をゆっくり走ります。デプン寺がムンゴットに再建された1970年代には、この道の途中までしか車が通れなかったといいます。だから昔は、フブリへ買出しに行くとき、延々と歩かなければいけなかったそうです。今でも車窓からは、昔ながらの南インドの農村風景を間近に垣間見ることができます。「インドを旅している」と、強く実感させられるひとときです。

 私が今回インドへ来たのは、チベット仏教の大本山が亡命先の南インドに再建され、自分の根本ラマがそこにいらっしゃるからです。つまり、自分のラマのもとで修行することが目的で、その「場所」は本当はどこでもよいのです。例えば、日本でも、アメリカでも・・・。しかし考えてみれば、私たちが学修している仏教は、もともとインドが発祥の地です。中でも無上瑜伽タントラは、「インド後期密教」といわれるように、インドの文化や風土と密接に関連しています。曼荼羅に登場する様々な男女の諸尊の表情や仕草なども、インドの人々を観察していると、「なるほど」と実感させられることがあります。今回私が修行する金剛バイラヴァの水牛の顔も、南インドの農村で実物をよく観察できます。そういう点も含め、インドの地で無上瑜伽タントラの修行を実践するというのは、やはり意味深いことだといえるでしょう。

 畑の中にチベット式の仏塔が見えてくると、ムンゴットのチベット難民入植地に到着です。入植地の中を少し走れば、デプン寺の大伽藍にさしかかります。この地に再建された大本山デプン寺は、事実上、ロセルリン学堂とゴマン学堂という二つの大僧院の連合体です。ロセルリン学堂には、僧侶たちの出身地に応じて設置された25のカンツェン(学寮)があります。その中で一番大きいのが、カム地方東部の僧侶を集めたテホール・カンツェンで、約600人が所属しています。こうした大規模なカンツェンの場合、さらに出身地で細分化して、メツェンという僧坊を幾つか設置しています。テホール・カンツェンのタンゴ・メツェンは、280人ほどの大所帯で、一般的なカンツェンを上回る規模です。このタンゴ・メツェンの若い僧侶たちが、まるで父親のように慕っているラマこそ、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師なのです。

チャンパ・リンポチェ御自坊

 デプン寺の中心街から細い路地へ入った横に、タンゴ・メツェンの立派な僧坊が建っています。 2006年の8月上旬に訪れたときは、連日の雨でこの路地の両側が沼地のようになっていて、宵の口には蛍が美しく舞っていたものです。そこからさらに進んだ奥まったところに、チャンパ・リンポチェのラダン(高僧の自坊のことをラダンとかラプランという)があります。ブーゲンビリアの赤い花が入り口を飾り、椰子の木に囲まれた庭が広がり、そこに趣のある白い家が建っています。その2階が、リンポチェの居室です。私は、リンポチェが昼食でベランダにお出ましになる時間を見計らい、御挨拶に上がりました。約半年ぶりの再会です。


 「チベット仏教との御縁2」のページに書いたように、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師との最初の出会いは、ポタラ・カレッジを設立して間もない1999年5月、「チベット密教芸術祭」のときです。それを含めて、今までに6回も日本へいらっしゃっていただき、ポタラ・カレッジで様々な灌頂や伝授をなさってくださいました。ポタラ・カレッジにとっても、私自身にとっても、一番身近な恩深い根本ラマだといえるでしょう。

 今回私が修行するヤマーンタカ一尊に関しては、2003年の春にリンポチェが来日されたとき、ポタラ・カレッジで大灌頂と成就法の伝授を授けていただきました。それの護摩法については、2005年春に来日されたとき、ポタラ・カレッジ主催で伝授を授けていただきました(チベット仏教との御縁3」参照)。また個人的には、グヒヤサマージャの生起次第と究竟次第について、2006年と2008年の夏に私がデプン寺を訪れ、リンポチェのラダンで詳しく教えを授けていただきました(チベット仏教との御縁4」参照)。これだけでも、本当に計り知れないほどの御恩です。もし一を聞いて十を知る利根の弟子ならば、ゲルク派密教の要点を残らず完全に理解できるほどの、素晴らしい教えでした。

 ただ私は鈍根の未熟者なので、リンポチェから教わりたいことが、まだまだ山ほどあります。しかし、リンポチェの御健康のことを考えると、なかなか難しいです。御高齢で幾つかの持病をわずらわれ、体調にかなり不安があるため、「リンポチェの御負担になるような形の伝授は、そろそろ遠慮しなければいけないな」と私は思っていました。リンポチェは、密教の隅々にまで精通した大阿闍梨です。特に、実践面に関しては、誰もが尊敬してやまぬ第一人者としてよく知られています。そこで私は、「伝授という形ではなく、リンポチェのもとで修行を実践させてもらえないだろうか」と考えました。それならば、私自身が修行するわけですから、さほどリンポチェの御負担にはなりません。もちろん、修行しながら色々と御指導いただくことはあるでしょうけれど、そういう基本的な密教事相なら、リンポチェは無意識のうちに実践できるほど慣れていらっしゃいます。だから、何の御苦労もなく、手本を示してくださることが可能なのです。

 今年の4月にリンポチェが来日なさったとき、個人的にお話しする機会があるたびに、「今年は来ないのか」と何度も私にお尋ねになりました。それで私は、「リンポチェのラダンで親近行を実修させていただけないでしょうか」と恐る恐るお願いしてみました。親近行bsnyen paとは、特定の本尊の成就法を、一定期間集中的に修行することです。なぜ恐る恐るお伺いしたのかというと、普通のチベット人修行者の感覚からすれば、親近行は自分の家でも実践できることで、そのためにラマを煩わすのは失礼ではないかと思ったからです。しかしリンポチェは、私の願いを寛大に聞き入れてくださいました。怠け者のうえに言葉の壁もある異国の愚鈍な弟子が、ようやく親近行をやる気になったので、「よしよし」と大変喜んでくださったようです。それで具体的な予定をリンポチェと相談し、今年の8月にデプン寺へ行くことにし、本尊をヤマーンタカ一尊に決めました。ゲルク派密教の代表的な本尊であり、かつ短期間で結願できるという理由からです。

 それ以来私は、ヤマーンタカ一尊の成就法を復習し、毎日一座を必ず実修するように心がけました。これの儀軌は、ツォンカパ大師によってまとめられた「降魔」bdud las rnam rgyalという成就法をもとにして、広・中・略の三作法があります。それらのうち略作法は、以前に片仮名読みと和訳のテキストを作ってありますが、簡略すぎて親近行では使えません。ですから、チベット語のテキストしかない広作法と中作法に習熟しなければならず、これはもう練習を積み重ねるしかありません。さらに、親近行の手引書や二次第の解説書、ゲクトル(魔除けの修法)や護摩の儀軌などにも目を通しておく必要があります。

 そのようにして、曲がりなりにも親近行のための予習を重ね、7月には旅行の準備もほぼ終えました。国内線飛行機の予約も取れたので、リンポチェに電話をかけ、フブリへ到着する日時をお伝えしました。このときは、比較的お元気な御様子だったと思います。ところがその数日後、シェーラプさんから、リンポチェが急病で入院されたという知らせが届いたのです。私は、ポタラ・カレッジのガワン先生の伝言でそれを聞き、茫然自失の状態になってしまいました。その直後に自分の担当の授業があったのですが、何を話したのかさっぱり覚えていません。それから2回ほど、シェーラプさんの携帯に電話して相談し、私の旅行を秋まで延期することに決めました。リンポチェは、フブリより少し遠いベルガムという地方都市にある、設備の整った大病院に入院なさったといいます。その病院には、リンポチェの病状を熟知した主治医の先生がいるので、まずは一安心です。

 その後、当時ムンゴットに滞在していたポタラ・カレッジ会員の方からメールがあり、リンポチェが無事退院なさり、徐々に御快復に向かっておられることが分かりました。9月には、快気祝いを開かれたそうです。それで、改めてシェーラプさんに連絡し、10月にお伺いするお許しをいただきました。その間に私のほうは、親近行の準備不足を補うため、成就法の広作法と中作法を徹底的に練習しました。後から顧みると、もし当初の予定どおり夏に親近行を実修していたら、かなり準備不足で中身の薄い修行になってしまったかもしれません。私の側からすると、8月と9月の2箇月間は、リンポチェが与えてくださった本当に貴重な時間だったわけです。

 以上のような経緯ですから、今回のリンポチェとの再会は、実に感慨深いものがありました。快気祝いのときのお写真も拝見していたので、さして驚きはしませんでしたが、やはり春に日本でお目にかかったときよりも、だいぶやつれた御様子です。このようなとき、チベット仏教の伝統では、「弟子のカルマに相応して、多少御衰弱の相をお示しになり・・・」と表現します。つまり、弟子にとって根本ラマは本尊そのものですから、本当の意味では病苦などあり得ません。しかし、弟子自身のカルマのせいで、弟子の側からの見え方としては、実際そのように見えてしまうということです。これは、単なる社交辞令的な言い回しではありません。弟子の側では、この言葉どおりに思念することが大切です。本当にそうであるか否かが問題なのではなく、そのように思念すること自体が、ラマに対する清浄な見方を保つ修行になるのです。

 それはともかく、病み上がりで少しやつれた御様子ながら、リンポチェの体調は十分安定していて、規則正しい生活ができているように見受けられました。御記憶も非常にはっきりしているので、今回の予定に支障はなさそうです。そこで、しばらく世間話などをしてから、親近行の進め方について具体的に相談し、要点を御指導いただきました。

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