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チベット仏教との御縁

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チベット仏教との御縁

 多くの方々から、「なぜチベット仏教の世界へ入ったのですか」とか、「どのように勉強や修行をしたのですか」いう御質問をいただきます。寺院の子弟でもない私が仏教に深く関わり、しかもそれが日本で馴染みの薄い「チベット仏教」なのだから、不思議に思われるのも当然でしょう。そこで、私とチベット仏教との御縁を、少し詳しく紹介したいと思います。

チベット仏教との出会い

 大学を卒業して社会人になっても、「自分の本当にやりたいこと」が見つかりませんでした。趣味や好きなことは結構多いのですが、生涯をかけて打ち込めるようなものではありません。中学生や高校生の頃から明確な目標を持って努力している人も多いのに、情けない話です。でもこれが、仏教の世界へ入った大きな要因ですから、正直に申し上げなければなりません。

 1980年代の中頃ですが、当時私が働いていた職場の近くに、幾つかの寺院がありました。もともと歴史や宗教には多少興味を持っていたから、仕事の後にお寺巡りをするのは、気分転換にうってつけです。そのうち、真言宗のお寺で行なわれている「阿字観」の会へ、ときどき参加するようになりました。この頃から、「自分の本当にやるべきことは仏教かもしれない」という思いが、少しづつ出てきたような気がします。そして、自分でいろいろ文献を調べたり、幾人かの僧侶の先生方や、仏教に詳しい方々と語りあううちに、「仏教の究極は密教である。究極の密教はチベットにある」という結論に達しました。もちろん、この結論の是非については、意見が分かれるでしょう。ただ、少なくとも私自身の心の中では、そのように強く思ったのです。それで、「何とかして、チベット密教を実践する手がかりを得たい」と願望するようになったわけです。しかし、チベット仏教に関しては何の情報源も見つからず、暗中模索の状態で月日ばかりが過ぎてゆきます。

 そんなとき、「阿字観」の会から偶然の御縁が続き、チベット仏教ニンマ派の高僧ニチャン・リンポチェ師の勉強会に参加させていただくことになりました。テーマは、インドとチベットの仏教史です。この本題とは別に、リンポチェは、三宝への帰依や菩提心の重要性について繰り返し説いてくださいました。そのお蔭で、大乗仏教徒としての基礎固めができたと思います。ちょうどその頃、勉強会の先輩たちに誘われ、先代ターラー・リンポチェ猊下(ゲルク派ギュトゥー寺元僧院長)から所作タントラに基づく「緑ターラー」の許可灌頂を受ける機会に恵まれました(チベット文化研究会主催)。私にとっては、初めて受法するチベット密教の伝授です。

 ニチャン・リンポチェは、日本語も堪能でしたが、「深く学ぶには、チベット語を習った方がよい」と私にお勧めになりました。運よくそのとき、チベット文化研究会で語学クラスが開講されたので、私は早速それに通うことにしました。最初に習ったのは、ルントック先生(前、ダライ・ラマ法王駐日代表)です。ちょうど、ダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受賞なさった時期だと思います。

ツォンカパ大師の教え

 この語学クラスのすぐ後の時間帯に、クンチョック・シタル先生とソナム・ギャルツェン・ゴンタ先生が交替で担当する仏教のクラスもありました。私はまだチベットについて知らないことばかりでしたから、少しでも見聞を広めたいという思いで、先生たちの仏教クラスも受講することにしたのです。ところが、そこで「ラムリム(覚りへの道順)」の概要などを勉強しているうちに、ゲルク派宗祖ツォンカパ大師の教えに強く惹かれるようになりました。知れば知るほど、「ツォンカパ大師の教えが、自分には一番ぴったり合っている。これこそ、今まで探し求めていたものだ」という思いが強くなってきました。それで私は、「これからは、ツォンカパ大師の教えを徹底的に学び、実践しよう」と決心したのです。

 ここで誤解のないように申し上げておきたいのは、そのようにゲルク派の道を選んだからといって、ニンマ派の教えを否定するわけではないという点です。チベット仏教の各宗派や日本の伝統仏教は、いずれもお釈迦様の教えを源流とする正統な仏教です。真の仏教徒ならば、正法を敬って尊重することに関し、宗派意識に捉われてはいけません。「ゲルク派の教えが一番合っている」というのは、私自身にとってのことです。他の人にとっても同様であるとは限りません。だからこそ、多種多様な宗派や法流の存在意義があるのです。私たち輪廻の衆生は、過去世に積んできたカルマも様々だし、その結果として生じた今世の性格や興味も様々です。それらに合わせて、お釈迦様は、教えを多面的にお説きになりました。これを、「対機説法」といいます。お釈迦様の教えの多面性がもとになって、後の時代に多種多様な宗派や法流が成立したのです。それらの中から自分に一番合ったものを選択し、その教えを大切に守ってゆくのは、仏教徒として正しい態度だといえます。しかし、「自分の選んだ宗派や法流だけが正しく、他は全て間違っている」と考えるのは、お釈迦様の対機説法の意義を否定することになり、仏教徒の態度として正しくありません。

 話を本題に戻しましょう。その頃の私は時間的に余裕があったので、クンチョック先生とソナム先生の自宅へ足繁く通い、チベット語と仏教を勉強しながら、様々な仏典を共同で和訳することに情熱を傾けていました。今から思うと、怠惰な性格の私にしては、一生懸命勉強した時期だったといえるかもしれません。その成果の一部は、各種勉強会の資料に用いられ、後に『実践・チベット仏教入門』として出版されるなど、日の目を見ることになりました。しかし、「ドゥータ」(僧院教育の一番最初の入門課程)やダライ・ラマ三世の『ラムリム・セルシュンマ』など、私の怠慢のせいで中断状態のまま放置されてしまったものも多々あります。

 実践の面では、「ガンデン・ラギャマのグルヨーガ」と「ユンテン・シルキュルマ」の瞑想を始めました(詳しくは、『実践・チベット仏教入門』第4章pp.169~205参照)。これらは、密教の門へ入るための前行になりますが、灌頂受法後も「六座グルヨーガ」と併せて修行を続けています。

法王代表部の広報担当に

 1990年代初頭、ダライ・ラマ法王の駐日代表として、法王の長兄にあたるトゥプテン・ジクメー・ノルブ教授(タクツェル・リンポチェ)が着任されました。それで、代表部事務所の体制を一新することになり、クンチョック先生とソナム先生が文化担当に就任したのです。日本人の専従職員が必要だと伺ったので、私も広報担当として採用していただきました。このときから、「チベット」が私の本業になったわけです。

 代表部事務所は、ダライ・ラマ法王とチベット亡命政府の日本・東アジア地域に於ける公式代表機関であり、いわば大使館のような役割りを果たしています。チベットは政教一致が伝統なので、代表部事務所の仕事の一環として、仏教の活動を行なうことは可能です。しかし、代表部事務所の仕事の主たる部分は、あくまで大使館的な機能でなければなりません。そのあたりの混同を避ける意味もあって、代表部事務所の宗教・文化関連の活動は、「チベットハウス」という名称を冠して行なうことになりました。

ヤマーンタカ十三尊の大灌頂

 1992年、現代チベット仏教界で実質的に法王に次ぐ高僧として尊敬されているキャプジェ・デンマ・ロチュー・リンポチェ猊下(ナムギェル寺元僧院長)が、代表部事務所の支援団体の招聘によって御来日されました。それでこの機会に、代表部事務所の主催で「ヤマーンタカ十三尊」の大灌頂を厳修することになりました。「ヤマーンタカ(金剛怖畏)」は、ゲルク派密教の三大本尊の一つで、宗祖と宗門の守護尊とされています。ゲルク派の教えを学修する者としては、是非とも受法しておきたい内容です。私も主催者の一員として、この貴重な伝法の機会に、喜んで参加させていただきました。自分自身にとっては、初めて受法する無上瑜伽タントラの大灌頂です。こうした無上瑜伽タントラの大灌頂は、菩薩戒と三昧耶戒の授与、投華得仏、五部の瓶灌頂と金剛阿闍梨灌頂、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂などが全て揃ったもので、最低二日間を要します。

 これを受法すると、毎日欠かさず「六座グルヨーガ」を修行しなければなりません。「六座グルヨーガ」の第一の目的は、菩薩戒と三昧耶戒を憶念することですが、習熟して行法に工夫を凝らしてゆけば、とても深遠な密教の実践になります(詳しくは、拙著『チベット密教 修行の設計図』第Ⅱ部八章pp.86~101参照)。それを毎日続けることで、無上瑜伽タントラの瑜伽行者としての素養が、自然と身についてくるのです。そのようなわけで、最初に無上瑜伽タントラの大灌頂を授けてくださったロチュー・リンポチェを、私は第一の根本ラマと考えています(「根本ラマ」とは、直接の恩師のことで、一人に限定する必要はありません。私の場合、ロチュー・リンポチェを始め、後述するチャンパ・リンポチェ、第百世ガンデン座主、第百二世ガンデン座主の四人が、主要な根本ラマとなります。根本ラマが複数いる場合、本体が同一で側面が別異だと考えれば、グルヨーガの瞑想などでイメージしやすいでしょう)。

 ロチュー・リンポチェは、1993年と94年にも御来日されています。93年のときは、再び「ヤマーンタカ十三尊」の大灌頂を授けていただきました。日本の密教では、伝法灌頂などを一度しか受法しないようですが、チベット密教では同じ灌頂を何度も受法します。そのようにする最大の理由は、三昧耶戒の浄化です。三昧耶戒は、外面の行為よりも内面の心の持ち方を問題とするため、知らず知らずに違越してしまいがちです。初心の修行者の場合、三昧耶戒の根本罪に違越したら、再び灌頂を受け直すしか浄化の方法はありません。そういう意味で、既に受法した灌頂であっても、機会があれば再び受けるようにするのです。別の理由もあります。灌頂法儀の最中には、大阿闍梨の指導に従い、受者も本尊や曼荼羅を瞑想しなければなりません。そうは言っても、初めての受法では、なかなか上手く瞑想できないものです。しかし、回数を重ねて習熟するにつれ、灌頂法儀での観想も容易になります。実際に私は、初めて「ヤマーンタカ十三尊」の大灌頂を受法してから約一年間「六座グルヨーガ」などを修行し、93年に再び同じ大灌頂を受けたとき、前回よりも格段に受法の手応えを実感することができました。

 ロチュー・リンポチェが94年12月に来日されたときは、無上瑜伽タントラに基づく「金剛薩埵父母尊」の許可灌頂などを授けていただきました。このとき私は、「六座グルヨーガ」の行法について、リンポチェから個人的に御指導を受ける機会に恵まれました。そのお蔭で、無上瑜伽タントラの行法の基本的な枠組みについて、目から鱗が落ちるように理解を深めることができたと思います。密教の奥義を窮めたラマの偉大な加持力を、身をもって体験させられた出来事です。そのとき以来、私は「六座グルヨーガ」の修行を、前よりもずっと真剣に実践するようになりました。

チベット本土への参拝旅行

 話は前後しますが、1992年の暮に、チベット本土のアムド地方を旅行しました。初めて訪れるチベット本土です。それを中央チベットとせずにアムドとしたのは、ツォンカパ大師への憧憬の念からです。まず何よりも先に、大師御誕生の聖地に建立されたクンブム寺(青海省湟中)を訪れ、大師の教えを正しく学修できるように祈りを捧げました。その次に、ラプラン・タシーキル寺(甘粛省夏河)を参拝しました。クンブム寺とタシーキル寺は、アムド地方に於けるゲルク派の大本山です。

 翌1993年の暮には、中央チベットのラサを訪れました。このときは、ポタラ宮、チョカン寺、ラモチェ寺、ギュメー寺、ガンデン寺、セラ寺、デプン寺などを順拝しました。チョカン寺は、チベット最古の寺院といわれ、チベット仏教全体の総本山のような役割りを果たしています。1408年、ツォンカパ大師はチョカン寺で祈願大祭を厳修し、本尊の釈迦牟尼仏に密教の宝冠や荘厳を献じたといいます。これは、釈尊と持金剛仏の一心同体性を示す教えです。ラモチェ寺も、同じ頃に建立された古刹ですが、後世にはゲルク派の密教道場であるギュトゥー寺が併設されました。それと並び称されるもう一つの密教道場が、ギュメー寺です。ガンデン寺とセラ寺とデプン寺は、「ゲルク派三大本山」といわれています。中でもガンデン寺は、ツォンカパ大師御自身の開山で、大師の霊廟を擁するゲルク派最大の聖地です。晩年のツォンカパ大師は、『中観密意解明』や『五次第明灯』など、顕密の究極の論書をこの地で著述なっています。デプン寺のロセルリン学堂は、ロチュー・リンポチェを始めとする恩ある根本ラマたちが、かつて学問と修行を積まれた僧院です(以上アムドとラサの訪問は、年末休暇中の個人的な旅行であり、代表部事務所の仕事とは関係ありません)。

ダライ・ラマ法王の御来日

 話を日本国内のことに戻しましょう。1995年の春には、代表部事務所の悲願だったダライ・ラマ法王の御来日が実現しました。今でこそ、法王は毎年のように来日なさっていますが、そのようなことは当時ではとても考えられません。わが国を取り巻く諸般の事情により、ダライ・ラマ法王の御来日は、極めて困難な状況になっていたのです。越え難い壁に行く手を阻まれ、挫折感ばかり味わう日々が続きました。しかし、幾たびも失敗を重ねた末、教派神道の団体の支援のお蔭で、八方塞りの状況を打開し得たのです。それはさておき、ようやく御来日が実現したため、私は初めて法王のお姿を直接拝むことができました。代表部事所の一職員として、謁見の末席に加えていただいたときのことは、今でも鮮明に覚えています。

 同じ年の9月には、クンチョック先生とソナム先生と私の共著書『実践・チベット仏教入門』が春秋社から出版されました。これは、「ラムリム」の概観、「六加行法」の説明、「ガンデン・ラギャマ」等の読誦次第、密教の概論などをまとめたもので、ロチュー・リンポチェから頂戴した序文が巻頭を飾っています。供養のお供えのしかたから瞑想法まで、チベット仏教の実践面を丁寧に解説した特色ある本です。新装版を含めて四刷を重ねましたが、現在品切れで重版未定となっているのは残念です。

 翌1996年の2月、ソナム先生は、南インドのデプン寺ロセルリン学堂でゲシェーの学位を取得しました。これは、論理学や般若学や中観学など、チベット仏教の伝統教学を十分に習得した学僧に、問答の試験を経て与えられる博士号です。

インドの亡命チベット人社会を訪ねる

 同じ1996年の春に、私はインドの亡命チベット人社会を見学して回りました。これは、現地の事情を直接見聞した方がよいということで、当時の駐日代表カルマ・ゲレク・ユトク師(現、宗教文化大臣)とラクパ・ツォコ事務局長(現、駐豪代表)の好意により実現したものです。そうした経緯から、訪問先の各地では、チベット亡命政府の職員たちの手厚い歓迎を受け、いろいろ得難い経験を積むことになりました。

 まず訪れたのは、北インドのヒマチャルプラデシュ州ダラムサラです。ここには、ダライ・ラマ法王の仮宮殿とチベット亡命政府があります。ダライ・ラマ法王は、説法でお忙しい御予定の合間を縫って、私に謁見の機会を与えくださいました。まことに畏れ多く、分不相応に有難いことです。私はひどく緊張していて、法王から頂戴して首にかけていた長いカタ(儀礼用の絹布)の端を踏んでしまいました。それを御覧になって、法王が大笑いなさり、ようやく緊張がほぐれたのを覚えています。

 私たちが滞在したゲストハウスの隣に、ロチュー・リンポチェの御自坊がありました。それで、何度か御挨拶に上がってお話ができたのは、とても幸運だったと思います。そのとき、かねてから望んでいた「ヤマーンタカ父母尊成就法」の伝授をお願いし、日を改めて口伝を授けていただきました。「成就法」とは、灌頂を受けた本尊の生起次第を修行するための儀軌です。私はこのとき以来、「六座グルヨーガ」とともに、時間が許せば「ヤマーンタカ父母尊成就法」も実修するように心がけています。これは、「ヤマーンタカ十三尊成就法」の略次第です。

 ダラムサラの法王仮宮殿の隣には、中央寺院とナムギェル寺が軒を連ねています。前者は、ラサのチョカン寺の役割りを引き継いだ寺院です。ツォンカパ大師が始めた祈願大祭も、亡命チベット人社会では、この場所で厳修されています。ナムギェル寺は、ポタラ宮の中にあり、法王直属の僧院としての役割りを果たしていました。ダラムサラのナムギェル寺も同様で、法王が「カーラチャクラ」の大灌頂を世界各地で厳修されるのに同行し、砂曼荼羅建立などの法儀を担当しています。

 そのすぐ近くには、ソナム先生とクンチョック先生の出身僧院である仏教論理大学もあります。これは、亡命先で近代教育を受けた新世代のチベット人のための僧院として、法王仮宮殿のお膝元に設置されたものです。そこでの教育内容は、ゲルク派の伝統教学(デプン寺ロセルリン学堂の流儀)が中心となりますが、ニンマ派、カギュー派、サキャ派の教えも併せて学修しています。私たちは、ソナム、クンチョック両先生の恩師にあたるゲシェー・ロサン・ギャツォ学長(当時)とお目にかかり、ダラムサラの山麓に建設中の同大学新校舎を案内していただきました。現在、この新校舎はサーラ分校と呼ばれ、チベット人の在家や外国人も受け入れているようです。

 ダラムサラの次は、南インドのカルナタカ州にあるチベット人難民入植地を、フンスール、バイラクッペ、ムンゴットの順に回りました。フンスールではギュメー寺、バイラクッペではセラ寺とタシールンポ寺、ムンゴットではガンデン寺とデプン寺などを参拝しました。これらの僧院は、もともとチベット本土にあるものですが、それぞれの流儀を継承する僧侶たちによって、1970年代に各地の難民入植地へ再建されたといいます。今日では、こうした南インドの僧院が、ゲルク派の伝統教学を継承する拠点となっています。

 その中でも、デプン寺のロセルリン学堂は、法流の面で私たちと御縁が深いため、後に何度も訪れることになります。しかし、この最初の訪問時には、デプン寺で何か教えを学修したわけではありません。そのときのムンゴット滞在で、とりわけ印象に強く残っているのは、亡命政府駐在代表(当時)のケルサン・ギャツォ氏の優しいお人柄です。それはまるで、在家仏教徒の理想像のようにさえ感じられました。上に立つ人物が真の慈悲心と利他心を持って行動すれば、多くの人々に安心感と幸福感をもたらします。ギャツォ氏の立ち居振る舞いの一つ一つから、無畏施の何たるかを学ばせてもらったような気がします。彼と一緒に訪れた養老院で、仏道修行に励んでいるお年寄りたちの生き生きとした姿を見て、私は深い感銘を受けました。僧院だけでなく、在家の社会の隅々にまで、仏教の善い影響が及んでいる実例を、ムンゴット入植地で垣間見ることができたのです。


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