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ラムリムの概要

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アティーシャ大師;ガンデン寺チャンツェ学堂の教科書より転載

ラムリムの概要

 チベット仏教の実践体系は、小乗・大乗・密教という三重構造になっています。外面の行動としては、在家・出家それぞれの立場で戒律を守り、役割り分担します。内面の心では、慈悲と菩提心を修練し、空を覚る智慧を磨きます。そして心髄の修行として、人知れず密教の本尊ヨーガを実践します。

 大乗と密教に関しては、本質的な意味からすれば、在家と出家で区別はありません(現実問題として、受法機会や学修時間の多寡の面で、差異はありますが・・)。時おり、「ゲルク派の密教は、出家僧でなければ本格的に修行できない」などと語られているようですが、それは誤りです。ただいずれにせよ、高度な密教を修行できるようになるためには、教えを正しく学んで実践することを積み重ねなければいけません。在家の立場でこれを実現するには、自分の状況に合った効果的な学修方法を工夫し、地道な努力を続ける必要があります。

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 チベット仏教の三重構造の実践体系は、「ラムリム(道次第)」と「五道十地の修道論(サラム)」によって学ぶことができます。そのうち前者の概要について、ここで簡単に紹介してみましょう。

 まず前段として、学修の心構えを確立してから、正しいラマに師事し、いま手中にしている有暇具足、すなわち仏教を学修できる境遇の有難さを自覚します。

 次に、ひとたび得た有暇具足も無常であり、脆く儚いものであることを思念します。もしも、修行をせずに悪業ばかり積んで今生を終えれば、その果報として赴く来世の境遇は、地獄・餓鬼・畜生という三悪趣しかありません。それらの苦しみに思いを巡らせ、「三悪趣への転落を免れるためには、仏陀・法・僧伽の三宝に頼るしかない」と信じ、三宝への帰依を確立します。これが、仏教徒であることの基準です。そのうえで、仏陀たるお釈迦様の教えに従い、カルマの因果関係を正しく知り、十善戒を守るように心がけます。ここまでが、「下士と共通の道次第」です。

 お釈迦様が四諦や十二縁起の教えでお説きになっているように、本当は三悪趣だけでなく、輪廻の全体が苦しみの世界です。なぜそうなるかというと、心に煩悩があるからです。私たちは、煩悩によってカルマを積むことで、輪廻という苦しみの世界に生まれ変わりを繰り返しています。諸々の煩悩の根本は、空を覚っていない無明、すなわち習慣的な実体視の心です。そのことに思いを巡らせ、輪廻を心底から厭い、解脱をあくまでも希求する心、すなわち出離を起こします。そのうえで、戒・定(三昧)・慧の三学を実践します。ここまでが、「中士と共通の道次第」で、小乗の実践内容に相当します。

 さてこれからは、「上士の道次第」、すなわち大乗の実践内容に入ります。今まで自分自身のこととして、下士と中士の流れを見てきたのと同様に、今度は視野を大きく広げ、他者のことに思いを巡らしてみます。それも、自分に近い人々だけでなく、一切衆生にまで思いを広げてゆきます。衆生たちも、自分自身と同様に、輪廻の苦海に溺れています。ただ自分は、そこから脱出する確かな手だて、つまりお釈迦様の教えと出会い、今やそれを実践しつつあります。これに対し、大多数の衆生たちは、お釈迦様の教えに巡り会うことさえできません。過去世で自分の親となり、命懸けで自分を育ててくれたかもしれない衆生が、輪廻の苦海に呑み込まれてもがき苦しんでいるのです。このように思念して、一切衆生に対する大慈悲を起こし、「衆生救済の重荷を自分一人で背負って立とう」という殊勝な決意を固めます。ここが、小乗と大乗の分岐点です。

 なぜ、既にお釈迦様や阿弥陀様のような仏陀が存在するのに、この自分が衆生救済の重荷を背負う必要があるのでしょうか。確かに、仏陀の慈悲は無差別だし、救済能力は無限です。しかしそうであっても、その仏陀と縁のない衆生は、差し伸べられている救済の手を掴もうとはしません。これまでの諸仏と縁がなかったけれど、自分となら縁のある衆生は、無数に存在するはずです。だからこそ、それら無数の衆生のため、自分自身が救済の重荷を背負って立つのです。

 しかし、現在の自分にそのような衆生救済の力があるかと自問すれば、答えは明白です。自らも輪廻の苦海に溺れているのに、衆生を救済することなどできません。溺れている人が溺れている人を助けられないという、その如くです。また、解脱の岸たる小乗涅槃へ到達しても、輪廻の衆生を救済することはできません。陸地にいる人が、海で溺れている人を助けられないという、その如くです。では、どうすれば助けられるのかといえば、巧みな泳法を身につけた海難救助者の如くになるしかありません。この比喩に一致する在り方は、無住処涅槃の境地、つまりお釈迦様のような仏陀だけです。それゆえ、「衆生救済の重荷を背負おう」と決意した以上、自分自身が仏陀になることを目指さなければいけません。このように思念を重ね、「一切衆生のために、自分が仏陀の境地を得よう」と誓願し、実際にそのための修行へ入ることが、菩提心なのです。これこそ、「ラムリム」の教えの眼目です。

 正真正銘の菩提心を発した修行者のことを、菩薩といいます。といっても、最初の段階では、まだ凡夫の菩薩です。菩薩の修行は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六波羅蜜です。前の三波羅蜜は、それぞれの段階に応じて、様々な福徳を積んでゆく修行です。他者に対する直接の利他行となる四摂事も、多くはこれらの中に含まれます。ごく大雑把に整理するならば、布施波羅蜜とは、他者のためになる善いものごとを、自分から惜しみなく提供することです。持戒波羅蜜とは、自分を正しく律して、他者を苦しめないことです。忍辱波羅蜜とは、他者がもたらす苦しみなどに耐え、自分からは怒りで応酬しないことです。精進波羅蜜は、全ての修行を進展させる役割りを果たします。禅定波羅蜜は、精神集中によって般若波羅蜜を進展させる役割りを果たします。以上の五波羅蜜は、方便の修行と位置づけられます。これに対して、最後の般若波羅蜜は、智慧の修行です。方便と智慧の修行を、車の両輪の如く並行して進めてゆくのが、菩薩の正しい修行です。

 禅定波羅蜜と般若波羅蜜は、止観の瞑想を修習することによって実践できます。止は、心を一点集中する瞑想です。観は、ある程度集中した心によって教えを観察・分析する瞑想です。般若波羅蜜として重要なのは、空の理解です。空について、まず推論的・概念的な理解を確立したうえで、その結論を観の瞑想に持ち込みます。これと止の瞑想とを、次第に結びつけ、一体化させてゆきます。そうすると、認識対象の顕現と認識主体の顕現が次第に没し、やがて「水へ水を注ぐ」ような一味の境地へ至ります。このとき、空を直観的に覚るのです。空の直観了解を得てからは、聖者の菩薩となります。

 聖者の菩薩は、空の直観了解の智慧によって、煩悩障を粗大なものから順に断じてゆきます。さらに、煩悩障の薫習である所知障も完全に断滅することで、仏陀の境地を達成するのです。

 菩提心を発してから仏陀の境地へ至るまにでには、天文学的に長い期間を要するといいます。それを大巾に短縮し、速やかに仏陀となるための特別に優れた方便が、密教の本尊ヨーガなのです。

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 以上は、「ラムリム」の重要な項目を適宜拾って列挙した程度の紹介です(黄色のマーカーは、「ラムリム」理解のキーワード)。チベット仏教を本格的に実践するためには、「ラムリム」を詳しく学ぶ必要があります。例えば、「仏陀・法・僧伽の三宝」というのは、いかなる修行に於ても一番重要ですから、その各々の意味を正しく知らなければいけません。簡単にいえば、仏陀はお釈迦様、法はお釈迦様の教え、僧伽はそれを正しく修行している聖者たちです。しかし、本格的な修行を実践するときには、そのぐらいの理解では足りません。仏陀とは何か? 法とは何か? 僧伽とは何か? これらを突き詰めて学ぶことにより、帰依の修行も大巾にレベルアップするのです。

 また例えば、出離と菩提心を矛盾する関係と捉えたり、慈悲と空性理解を反比例の関係と捉えたり、推論的理解は空を覚る妨げになると思ったり、空を覚ったら善悪の区別は関係ないと思ったり、菩薩のままでいた方が仏陀となるよりも利他を実行できると考える等々、重大な誤解を生じる危険性は山ほどあるので、教えを注意深く学んで正しい理解を確立し、そのうえで修行を実践することが非常に大切です。

◎ 「ラムリム」の要点をもう少し学びたい方は、拙著『チベット密教 修行の設計図』の第Ⅲ部と第Ⅳ部を御覧になってください。

◎ 「ラムリム」を詳しく学ぶには、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、藤田省吾共著『ラムリム伝授録Ⅰ・Ⅱ』(ポタラ・カレッジ チベット仏教叢書1/チベット仏教普及協会)がお奨めです。

◎ 「ラムリム」の実践的な瞑想テキストとしては、『パンチェン・ラマのラムリム』ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、小野裕子共訳(ポタラ・カレッジ チベット仏教叢書5/チベット仏教普及協会)がお奨めです。

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