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ギュトゥー寺での密教学修

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ギュトゥー寺での密教学修 2012

ダラムサラ中央寺院の本尊釈迦牟尼仏

 2012年8月、主に個人的な学修のため、北インドのダラムサラを訪れました。今回の主たる目的は、ダラムラサの山麓に再建されたギュトゥー寺で、密教の行法について学ぶことです。ギュトゥー寺は、ギュメー寺とともに、ゲルク派の最高格式の密教道場としてよく知られています。

 私は今まで、チベット密教の学修のため、大体一年おきにインドを訪れていました。行き先は、いつも南インドの大本山デプン寺。なぜかといえば、自分の根本ラマである大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師が、そこにお住まいだったからです。しかし2011年3月、大変残念なことにリンポチェが御示寂され、大恩師のもとで密教の学修を続けられなくなってしまいました。それで、今回ギュトゥー寺へ行くことになったわけですが、これはまさにリンポチェのお導きにほかなりません。

 2010年10月、デプン寺境内にあるリンポチェの御自坊で、私はヤマーンタカ一尊の親近行を実修させていただきました(詳しくはこちらを参照)。それが満願したとき、リンポチェと一緒に自灌頂を修法しました。これは簡単にいえば、自分で自分に灌頂を授けるもので、親近行を終えると実修の資格を得られます。そのとき自灌頂の修法の要点について、リンポチェから簡単に御指導いただいたのですが、やはり儀軌をよく精読してから詳しく学びたいと思いました。それでリンポチェに、「今度お邪魔したとき教えてください」とお願いしました。そのように申し上げると、リンポチェは普通、「ラッソー(よしよし)、体調が良かったらね。来る前に電話しなさい」とおっしゃってくださったものです。ところがこのときは、決してそういうふうに快諾してはくださいませんでした。今から考えると、入涅槃の理趣を遠からずお示しになる御決意を、既に固めていらっしゃったのだと思います。そして、自灌頂以外にも話題に出た幾つかの行法について、「ギュメーやギュトゥーでないと難しい」と何度もおっしゃいました。今にしてみれば、「続きはギュメー寺やギュトゥー寺で習いなさい」という御意図だったと分かりますが、そのとき私はリンポチェのもとで学修を続けることしか念頭にありませんでした。それで、「また参りますから、是非お元気でいらっしゃってください」と申し上げてお別れしたのが、結局最後になってしまったのです。

 こうした経緯から、チャンパ・リンポチェの御示寂後、私はギュメー寺かギュトゥー寺で密教を学修したいと希望するようになりました。リンポチェ御自身は、ギュメー寺で密教を修行されていますが、ギュトゥー寺の僧院長をお務めになった先代リン・リンポチェ猊下に長年お仕えなさっていたこともあり、ギュトゥーの流儀についてもよく御存じでした。私自身も、チャンパ・リンポチェから両方の流儀を教わったことがよくあります。そんなわけで、どちらで学修してもさほど違和感はなさそうなので、たまたま色々な御縁のあったギュトゥー寺へ行くことになりました。

ダラムサラへ

 ギュトゥー寺は、ヒマチャル・プラデシュ州ダラムサラの近くにあります。ダラムサラは、ダライ・ラマ法王の仮宮殿とチベット亡命政府の所在地として有名です。しかし、一口に「ダラムサラ」といっても、幾つかのエリアに分けて考えなければいけません。まず、最も一般的にダラムサラ(インド式の発音ではダラムシャラー)といえば、谷あいの低い尾根に開けた地元のインド人の町、ロアー・ダラムサラを指します。そこから尾根を上がっていったところに、亡命チベット人の町、マクロードガンジ(アッパー・ダラムサラ)があります。その中でも、法王仮宮殿や中央寺院(ツクラクカン)、ナムギェル寺、仏教論理大学(ツェンニー・タツァン)などの集まっている一角を「大乗法院(テクチェン・チューリン)」といいます。ロアー・ダラムサラとテクチェン・チューリンの間に、チベット亡命政府の官庁やネーチュン寺、チベット文献図書館(ペンズーカン)、医学暦法研究所(メンツィーカン)などがあり、その一帯は「カンチェン・キーション」と呼ばれています。ギュトゥー寺が再建されたのは、ロアー・ダラムサラから東南東へ山裾を辿る道を7キロほど行った、スィドバリという場所です。

 デリーからダラムサラへ行く方法は幾つかありますが、いずれも一長一短で、これといった王道は存在しません。一番確実なのは、チベット人たちがよく利用している夜行バスでしょう。マジュヌカティラ(デリー北部のチベット人街)とマクロードガンジを結ぶ便を数社が運行しており、今ではちょっとした競争状態になっています。そのせいか、結構良い車両が使われており、昔よりだいぶ快適になっているようです。それでもやはり、一晩中荒っぽい運転のバスに揺られるのは、相当に疲労します。一番早くて楽なのは、飛行機だと思います。キングフィッシャー・エアラインズが、小型のターボフロップ機を一日2往復飛ばしています。ただこれは、ちょっとした悪天候ですぐ欠航になるため、確実性が全然ありません。またダラムサラの空港は、マクロードガンジはもとより、ロアー・ダラムサラからも遠く離れています。他には、デリーから列車でパタンコットまで行き、そこからバスやタクシーでダラムサラへ向かう方法などもあります。

 しかし今回は、そのいずれでもない、ちょっと風変わりなルートを試してみました。それは、パタンコットからカングラ峡谷鉄道という762ミリ軌間の軽便鉄道に乗り、カングラから車でダラムサラへ向かうという方法です。なぜそんなルートを選んだのかというと、もう十五年以上前ですけれど、初めてダラムサラを訪れたときにバスの車窓から軽便鉄道の線路が何度も見え、「あれに乗ったら、さぞ絶景の連続だろうな」と思ったからです。今回ようやく念願叶い、パタンコットからカングラまで約4時間、トロッコのような列車の旅を経験することができました。実際に乗ってみて、期待したほどではなかったものの、景色はまあまあ良かったと思います。しかし、途中から車内が物凄く混雑し、大きなスーツケースを抱えて大変な目に遭いました。再び乗りたいとは思わないし、よほどの鉄道好きでなければ、このルートはお勧めできません。苦労は多かったけれど、このトロッコ列車に乗る前や降りた後も含め、今回のダラムサラへの往路は、周囲のインド人たちの親切が身にしみる旅となりました。

マクロードガンジ

 そのようにしてダラムサラへ辿り着いたのは、8月12日の昼。最初からギュトゥー寺へは向かわず、三日間ほどマクロードガンジに滞在しました。私が初めてこの地を訪れたのは、1996年の早春。それ以降ずっと南インドばかり行っていたため、今回は16年ぶりのダラムサラです。皆から「昔とは全然変わった」と聞かされていたので、「さぞ見違えるようになっているだろうな」と思いきや、それほどでもありませんでした。確かに、変わった点は数多く見出せます。例えば、メインスクエア直下の斜面を切り開いたバスの発着所や駐車場など、前に来たときは全然無かったので、ちょっと驚きです。マクロードガンジの町全体も、だいぶインド化が進んでいる印象を受けました(ここはもともとインドですから、それが悪いとは言えませんけれど・・)。それでも、チベットの仏教文化を中心に、世界各地の人々が集まって共存しているという、マクロードガンジ独特の「緩~い雰囲気」は、いまだ健在でした。

デンマ・ロチュー・リンポチェ猊下

 私は、マクロードガンジに滞在するなら、グリーンホテルと決めています。なぜかというと、自分の最初の根本ラマであるキャブジェ・デンマ・ロチュー・リンポチェ猊下(ナムギェル寺元僧院長、ポタラ・カレッジ宗教・学術顧問)の御自坊が、このホテル本館の最上階にあるからです。少し休んでから御挨拶に上がると、リンポチェの実弟で執事長のイェシェー・ティンレー師が、ちょうどベランダに出て来られました。2008年1月に南インドのデプン寺でお目にかかって以来の再会、とても懐かしいです。少しお話ししてから、イェシェー師が取り次いでくださり、リンポチェに謁見させていただくことができました。リンポチェは、わりとお元気な御様子です。今回ギュトゥー寺で密教を学修することになった経緯などを御報告し、宗祖ツォンカパ大師などによる三大本尊(グヒヤサマージャ、チャクラサンヴァラ、ヤマーンタカ)の願文の阿含相伝(ルン)をお願いしたところ、直ちに授けてくださいました。この願文は、三大本尊の生起・究竟二次第の要訣をまとめたもので、極めて深遠な内容の偈頌です。二日後に再びリンポチェに拝謁し、「ロサン・チュージョル・ラプギェーblo bzang chos ‘byor rab rgyas」という法名を賜わりました。リンポチェの尊称である「ロチュー」は「ロサン・チューインblo bzang chos dbying」の略なので、その最初の三音節を賜わったことになります。チュージョルは「法の財」、ラプギェーは「よく増益する」という意味です。もったいなすぎる名前ですけれど、「そのように少しでも努力せよ」という戒めと受けとめ、できるだけ精進したいと思います。

 マクロードガンジでは、中央寺院やナムギェル寺時輪堂にお参りしたり、本や法具を買ったりして過ごし、また仏教論理大学副学長のゲシェー・ケルサン・ダンドゥル師やチベット文献図書館のナムギェル・ツェリン先生とお目にかかりました。ダラムサラに長く在住されている中原一博氏とも、16年ぶりにお会いして、現地ならではのお話をいろいろ聞かせていただきました。中原さんの経営するルンタ・レストランも、前回訪問時にはまだありませんでした。マクロードガンジで日本風の食事ができるのは、本当にありがたいことです。

 8月のインドは、モンスーンシーズンの末期だから、基本的に天気はよくありません。マクロードガンジは尾根の上にあるため、霧がよくかかります。晴れ間が見えても、急に強い雨が降ったりするから、傘は手放せません。でも暑くはないので、わりと過ごしやすいと思います。同じ時期の東京より、ずっと涼しいはずです。グリーンホテルからの眺望は素晴らしく、ちょっとしたリゾート気分を味わえます。ここは、もの静かな西洋人の滞在者が多く、マクロードガンジ独特の「緩~い雰囲気」を存分に味わえる場所です。居心地は良いけれど、私の旅行目的は密教の学修ですから、いつまでもノンビリしているわけにはゆきません。それで、15日にはマクロードガンジを後にし、麓のギュトゥー寺へ移りました。

ギュトゥー寺

ギュトゥー寺の本堂と伽藍

 ギュトゥー寺は、ロアー・ダラムサラからパラムプール方面への道を約7キロほど行った左側にあります。山裾の斜面に境内が広がっており、全ての堂塔伽藍の意匠が統一されているため、整然とした綺麗な印象です。中央の奥まった所に本堂(ツォクカン)があり、その向かって右に寺務所棟(チャンズーカン)、左に図書館棟(ペンズーカン)があります。それらの手前には、本堂へ向かう参道の両側に、僧坊が三棟づつ並んでいます。各々の部屋は、広さなど全て同規格だそうです。そのもっと手前、山門の横が宿坊(ゲストハウス)で、1階に食堂と売店があります。境内の全体が美しい庭園で、インド人の庭師たちが手入れしています。私が訪れた時期には、バラやアジサイなどが咲き競っていました。

 現在ギュトゥー寺には、475人ほどの僧侶が在籍しています。これは、最初からギュトゥー寺へ入門した生え抜きの僧侶たちの人数です。デプン寺など三大本山から密教の学修に来たゲシェーたちを加えると、500人少々になるそうです。これは少し面白いことですが、生え抜きの僧侶たちの中に、転生活仏(トゥルク)は一人もいないそうです。換言すれば、ギュトゥー寺由来のトゥルクの名跡は無いということになります。もちろん、三大本山から来たゲシェーたちに、トゥルクはたくさんいます。ギュトゥー寺の僧院長(ケンポ)と副僧院長(ラマ・ウンゼー)は、三大本山のゲシェーたちの中から選ばれるため、僧院長がトゥルクであることは珍しくありません。ケンポとラマ・ウンゼー以外の要職としては、経頭(ウンゼー)、維那(ゲクー)、執事(チャンズー)などがあります。これらはほとんど、生え抜きの僧侶たちの中から選ばれるようです。

グヒヤサマージャ父母尊

 ギュトゥー寺の本堂は、趣きのある立派なたたずまいの建物です。デプン寺ロセルリン学堂など南インドに再建された大本山と比べれば小さく見えますが、五百人の僧侶を収容するのに十分な広さがあります。堂内の向かって左奥には、護法尊として六臂マハーカーラが祀られています。中央奥の内陣には、向かって左から、開山クンガ・トゥンドゥプ大師、チョヲ・ミキュー・ドルジェ、宗祖ツォンカパ大師と二大弟子、本尊釈迦牟尼仏、ヤマーンタカ父母尊、グヒヤサマージャ父母尊、チャクラサンヴァラ父母尊などの尊像が安置されています。ヤマーンタカなど三大本尊の立派な像が整然と並んでいるのは、ゲルク派寺院でも珍しいことで、ギュトゥー寺があくまで三大本尊の行法を窮めるための密教道場であることを如実に物語っています。チョヲ・ミキュードルジェについては、少し説明が必要かもしれません。これは、ラサのラモチェ寺の本尊を模したものです。ラモチェ寺は、古代チベット王国が栄えた7世紀、ソンツェン・ガンポ王のもとへ嫁いだ唐の文成公主が建立した寺院です。その本尊であるチョヲ・ミキュー・ドルジェは、釈尊の青年時代のお姿を写した阿閃金剛像で、同じく王のもとへ嫁いだネパールのブリクティー王女が持参したものと伝えられています。後に15世紀、クンガ・トゥンドゥプ大師がこのラモチェ寺の境内に密教学堂を開いたのが、ギュトゥー寺の始まりです。それゆえ、亡命先に再建されたギュトゥー寺でも、「ラモチェ寺密教学堂」という縁起に基づいてチョヲ・ミキュー・ドルジェ像を安置しているわけです。

カルマパ猊下

 今日ギュトゥー寺は、ギェルワ・カルマパ十七世猊下のいらっしゃる僧院として有名です。インド人のタクシー運転手なども、「ギュトゥー」と言って分からなくても、「カルマパ」と言えばすぐ分かります。ギュトゥーを訪れる外国人の十中八九は、カルマパ猊下の謁見が目的です。ギュトゥーがカルマパ猊下のための僧院だと勘違いしている人も、相当多そうです。カルマパ猊下は、いろいろ複雑な事情があって、ギュトゥーに仮の居を定めていらっしゃるにすぎません。ギュトゥー寺に所属なさっているわけでもないし、ギュトゥー寺がカルマパ猊下の指導下に入っているわけでもありません。

 カルマパ猊下の集団謁見は、水曜と土曜の午後2時から行なわれています。しかしこれは、当然のことながら、猊下がギュトゥーにいらっしゃるときだけです。私の滞在中も、後半は猊下がお出かけになったため、チャンスは一回だけしかありませんでした。ところが私は、その前夜に予習で遅くまで起きていたため、昼食後は眠くて仕方がありません。昼寝の誘惑に勝てず、せっかくの機会を逃してしまいました。謁見こそできませんでしたが、ある日の夕方、猊下が本堂を右遶なさっているお姿を少し離れて拝むことはできました。

学修内容など

ゲン・ゲドゥン・ツェリン師(向かって左)とニマ・ツェリン師

 今回ギュトゥー寺で私の世話をしてくださったのは、ニマ・ツェリン師という僧侶です。東京で砂曼荼羅や声明を紹介するイベント(チベットハウス主催)のため、2005年に来日した経験もある方です。現在は、若手僧侶に儀軌や声明を指導する師僧として、中心的な役割りを果たしています。冒頭に書いたとおり、今回の私の主な目的は「ヤマーンタカ一尊自灌頂儀軌」の学修です。これの伝授は、ゲン・ゲドゥン・ツェリン師というラマから受けることができました。ゲン・ゲンドゥン師は、ギュトゥー寺で当代随一の密教事相家として、知る人ぞ知る偉大な善知識です。

 私への伝授は、毎日午前中に1~2時間ほど、ゲン・ゲンドゥン師のお部屋で行なわれました。これに必ずニマ師が同席してくださったのは、とても助かりました。ゲン・ゲンドゥン師のお話が少し早くて聞き取りにくいときは、まるで通訳のように、ニマ師が平易なチベット語で言い直してくれるからです。二人がかりの個人教授は、本当に有難い限りです。それのみならず、午後はニマ師の自室で印の結び方や所作の復習をしたり、そのとき議論になった課題を翌日にニマ師からゲン・ゲドゥン師へ質問してくれたりなど、私の学修にとってニマ師の存在は大変な助けになりました。気軽に話せる身近な僧侶からも密教の内容を習えるという環境は、まさにギュトゥー寺ならではのメリットだと思います。

 自灌頂儀軌は、我生起、瓶生起、灌頂正行の三部分に大別されます。我生起は、基本的に成就法広本と同じです。ただ、供養や礼賛など、私が親近行で実修したものよりさらに広作法があり、それらの所作を詳しく習うことができました。瓶生起は、尊勝瓶と羯磨瓶を瓶水とともに本尊として生起するもので、我生起の応用と位置づけられます。これに関しては、疑問点も数多くありましたが、今回全て解決できました。灌頂正行は、大灌頂の法儀に於ける大阿闍梨の所作と基本的に同じです。受法の際に何度も見ていますが、自灌頂を実修するためには、それを自分自身で行なえるように習得しなければいけません。ゲン・ゲンドゥン師は、二つの瓶をはじめ、諸法具を全て揃えて説明してくださり、大変分かりやすい伝授となりました。ビデオ撮影もお許しいただいたので、これからそれを徹底的に分析し、理解を深めたいと思います。

 「ヤマーンタカ一尊自灌頂儀軌」の伝授が終わり、続いて「グヒヤサマージャ成就法広本」に基づく行法について、ギュトゥー寺の流儀に則して解説していただきました。これはゲルク派密教の最も根本的な行法だけに、当代随一の事相家による指導で、ギュトゥーの流儀をきちんと習得しておきたいと考えたからです。

 今回の主な学修内容は以上ですが、ヤマーンタカ一尊の増益法と敬愛法の護摩を拝観し、またチャクラサンヴァラ立体曼荼羅の制作現場を見学するなど、ギュトゥー寺ならではの貴重な体験もできました。

ギュトゥー寺での生活

 ギュトウー寺で学修している間、私は宿坊に泊まることができました。門前にも何軒かのゲストハウスがあるけれど、やはり境内に居た方が何かと便利です。私の部屋は3階の谷側にあり、なかなか良い眺めでした。

 朝食は、1階の食堂で7時半から食べられます。滞在期間の後半になると、ニマ師の僧房でいただくようになりました。ミルクティーと僧院配給のパン、それに目玉焼きなどです。その後、9時にゲン・ゲドゥン師の僧房へ行き、1~2時間ほど伝授を受けます。昼食と夕食は、僧侶たちと一緒に寺務所棟の食堂で食べます。時間は、昼食が正午、夕食が5時。メニューは、ダルと野菜が中心です。毎日大体似たり寄ったりだけれど、たまに驚くほど美味しいものが出ることもあります。特にナスの揚げ物など、高級天ぷら店なみの味でした。食事がマンネリ化して飽きてきた頃、日本から持参した秋刀魚の蒲焼きの缶詰を、ニマ師と一緒に食べてみました。「魚だからどうかな?」と思いましたが、ことのほか気に入ってもらえたようで、次の訪問時にはたくさん持って来るように約束させられたほどです。

 午後は、図書館でペチャ(経巻)を見たりして、3時半頃にニマ師の僧房へ行き、午前中の伝授の復習や質疑応答などをします。これがとても役に立ったことは、前に書いたとおりです。時間が長引いて5時を過ぎてしまったら、ニマ師と外へ出て、門前町の食堂でトゥクパ(チベット式のうどん)やチョーメン(焼きそば)を食べることもありました。食事のマンネリ化を心配した、ニマ師のさりげない心遣いです。

 こういう話をすると、読者の方々は、私がチベット語に物凄く堪能で、現地で何不自由なく会話をしていると思うかもしれません。でも、それはとんでもないことです。私は根本的に、語学の勉強が全然好きではありません。チベット語の場合、仏教用語は仕事柄毎日のように接しているので、仏典の読解はある程度慣れています。しかし、会話はあまり自信がありません。もちろん「いつ、どこで、何をする」ぐらいの簡単な話はできますから、普通に旅行するだけならさほど困らないでしょう。でも、ほとんどチベット語だけしか通じない僧院の中で、様々なコミュニケーションをスムーズにこなしてゆけるほどの語学力は、私に全然ありません。では実際どうしているのかといえば、それはもうほとんど、一部のチベット人僧侶たちの並外れた忍耐と努力に頼りきっているということです。私の下手なチベット語に辛抱強く耳を傾け、発音や表現の変な癖を見抜き、そのような私が理解できる言い方を選ぶように努めてくださる・・。そういう役割りを、以前は大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師御自身が果たしてくださいました。今回は、ニマ師です。まさにそのお蔭で、私のような鈍根の者でも、現地で何とか学修を続けることができるのです。こういうことこそ、一見しただけでは分からない、隠れた本当の慈悲ではないかと思います。

ギュトゥー寺を後に

 短い滞在期間でしたが、お蔭様で主目的の学修も無事に終え、幾つかの経軌や図像などの資料を入手し、必要な録音・写真・ビデオなども揃えることができました。個人的にも、ポタラ・カレッジとしても、今回ギュトゥー寺と深い御縁を結ぶことができたのは、本当によかったと思います。これからできるだけ定期的に現地を訪れ、学修を深めてゆきたいと思います。三大本尊二次第の行法を中心に、学ぶべきことは山ほどありますから・・。

 8月24日には、寺務所で執事の諸師と昼食を共にし、釈迦牟尼仏の立派なタンカ(仏画)や様々な資具を下賜していただきました。25日の午前、ゲン・ゲドゥン師の僧房へお別れの御挨拶に上がり、次回以降の御指導をお願いしました。それから、ニマ師や見送りに来てくださった文献図書館のナムギェル先生とともに、ギュトゥー寺の車で空港へ向かいました。この日は未明から大雨が降っていたため、果たして飛行機がちゃんと飛ぶか、皆が心配しています。既に雨はほとんどあがっているものの、案の定デリー行きのフライトは2便とも欠航。ある程度予想していたことなので、そのまま車でマクロードガンジへ向かいます。なぜかというと、マクロードガンジがデリー行きの夜行バスの始発だからです。そこでバスの切符を手配してから、食堂でニマ師やナムギェル先生と雑談して時間を潰します。私の乗るバスは、夕方6時半に出発。尾根を下るバスの車窓からは、雨上がりの夕景色を楽しむことができました。マクロードガンジ、テクチェン・チューリン、カンチェン・キーション、ロアー・ダラムサラ、そしてギュトゥー寺のある山裾あたりまでを全て一望に見渡せる、今まで体験したこともないような大パノラマです。これを眺められただけでも、夜行バスの旅を辛抱する甲斐はあるのかもしれません。

このレボートに関連する写真アルバムを、facebook上に公開しています。ギュトゥー寺本堂に安置されている諸尊や、護摩修法、立体曼荼羅の写真などがあります。
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