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誰も知らない火事

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誰も知らない火事

 「空」の本当の意味を深く知るには、中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の僅かな差を吟味する必要があります。なぜなら、その僅かな差こそが、中観哲学の最も微妙な部分だからです。

 チベット仏教の伝統では、中観帰謬論証派の見解を、思想哲学の究極と位置づけています。これに次ぐのが、中観自立論証派の見解です。それゆえ、最高の見解と次位の見解の差異を吟味することにより、究極の真理である「空」の意味を深く知ることができるわけです。

 では、何が両学派の見解の差なのでしょうか? よく知られているのは、空の論証方法の相異でしょう。これは、両学派の呼称にもなっています。けれども、一番本質的な差異は、世俗の次元での自相(自性)の有無です。

 自相rang gi mtshan nyidとは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んでいる、その心が向かっている先です。

 例をあげると、少し分かりやすくなります。熱くて物を燃やす作用のある化学反応を見て、私たちは「火」だと認識します。そのとき私たちは、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と、習慣的に思い込んでいます。もちろん、火を見たとき一々そのように考えるわけではありませんが、当然のこととしてそう思い込んでいるはずです。そのときの熱さや燃焼作用が、「火の自相」にほかなりません。

 では、そうした火の熱さや燃焼作用などについて、因果関係を徹底的に分析し、また全体と部分の関係を徹底的に分析して、火の自相の正体をどこまでも追求してゆくと、一体どうなるでしょうか?

 火も、その熱さも、燃焼作用も、様々な原因や条件によって発生し、諸々の部分によって構成され、その本質を「これだ」と掴むことはできません。そのように徹底的に分析・追求してゆく智慧(正理知の量)が認識する世界(勝義)では、火の自相は何一つ成立しません。これが、「火は空である」という意味です。この点では、自立論証派も帰謬論証派も、見解が一致します。

 ところが、そのように徹底的に分析・追求しない日常の心(言説の量)が認識する世界(世俗)で、火の自相が成立するか否かについては、両学派の見解が分かれます。これこそが、両学派の差異の最も本質的な部分なのです。

 自立論証派は、「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」という自相を、世俗の次元では承認します。つまり、上記のように徹底的に分析・追求していったら、火の自相は何も得られないけれど、そのように追求しなければ、熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。

 一方帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します。従って帰謬論証派の立場からすると、私たちが「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」と潜在的・習慣的に知覚・認識している心は、全て迷乱だということになります。ならば「火」という存在は、一体どうやって成立するのでしょうか? 帰謬論証派は、「分別によって仮説したのみ」と述べています。分別とは、名称や概念と結びつけて認識することです。つまり、熱くて燃焼作用のある化学反応を誰かが見て、彼の意識に既に存在する「火」の概念や「火」という言葉(記号)と結びつけて、彼が「火だ」と分別したことによって、その化学反応は「火」として仮に設定される・・・というのが帰謬論証派の見解です。

 ならば、誰かが見て分別しない限り、火は存在しないのでしょうか? そこで、自立論証派の立場にたってみて、世俗の次元での自相の存在を論証するため、次のような主張命題を立ててみましょう。

1.火を主題として、自相がある。
  なぜなら、分別されていなくても、熱さや燃焼作用があるゆえに。
  実例は、誰も気づいていないときの山火事の如し。

 誰も気づかず、誰も「火だ」と分別していなくても、小さな山火事がどこかで発生することはあるでしょう。その山火事の火には、熱さや燃焼作用という属性も具わっています。だから、現実に山林を焼くという効果的作用が発生するのです。もし帰謬論証派の言うように、誰かが「火だ」と分別したことによって火として成立するならば、この山火事は火ではないことになります。でもそうしたら、現実に山林を焼いたのは、火ではないのでしょうか? それは、常識から認められないでしょう。誰かが分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています。これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです。従って、徹底的に分析・追求しない限り、「火には自相がある」と結論づけられる・・・というのが、主張命題1の論旨です。

 この自立論証派の主張に対して、今度は帰謬論証派の立場にたって、次のように反論してみましょう。

2.論拠(宗法)が成立しない。
  なぜなら、分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに。
  汝の言う「誰も気づいていない山火事」も、いま我らによって分別されているゆえに。

 確かに、1の論証式にあるように、誰も気づいていなくても、山火事は山林を燃やすことになるでしょう。「誰も気づいていなければ燃えない」というならば、山火事の被害も随分少なくなるはずですが、現実にはそうはゆきません。しかし帰謬論証派は、その山火事を、複雑な相互縁起の中で様々に生じている諸現象の一つとして位置づけます。それを人が分別するときに、「火」だとか「火事」だとか認識することになるのです。この分別は、火を直接見る場合、遠方から煙を見て推論する場合、後からそれについて語る場合など、いろいろな形で成立します。この問答では、過去に於てどこかで発生した「誰も気づかなかった山火事」という一現象について、今まさに両者が論議する場面に於て、「火」として分別されているのです。

 2の反論でなぜ「論拠(宗法)が成立しない」と答えたかというと、分別されていないときには、いかなる任意の存在xもxとして設定されないゆえに、「火」という主題自体が成り立たなくなり、従ってそのうえに「分別されていなくても属性がある」という論拠も立てられないからです。もちろん、これは帰謬論証派の見解に沿った論拠の立て方だから、自立論証派がそのまま是認することにはなりません。ただ、この反論によって、両学派の見解の差異が見えてきます。

 帰謬論証派は、次のように考えます。「様々なものごとに自相がある」というのは、私たちの思い込みにすぎません。しかし、そのような思い込みを積み重ねて、私たちは日常生活を送っているのです。「自相があると思い込む」という意味は、何らかの法をxとして分別するだけではなく、「xをxたらしめている本質的なものがx自体の側にある」と私たちが潜在的・習慣的に思うことを指します。そしてこのとき、私たちの思いが指向している先が「自相」なのです。それは、本当は無いのに、「有る」と潜在的・習慣的に思うことによって虚構されているのです。

 帰謬論証派といえども、人が見ていないときに火(後から「火」だと分別されるところのもの)が存在すること、その火には物を燃やすという効果的作用があることを認めます。けれども、自立論証派のように、熱さや燃焼作用を火の自相として承認するわけではありません。帰謬論証派に言わせれば、誰も気づいていない山火事は、単なる現象です。その熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性にすぎません。後からそれを語る者たちが、自己の意識の中にある概念や名称と結びつけ、それらを「山火事」や「熱さ」や「燃焼」だと分別しているのです。そのように分別された火も、自相によって成立しているわけではないので、「単なる火」にすぎません。

 自立論証派が1の論証式を立てたとき心の中で思っていることに対し、最も本質的な反論はを述べるならば、「必然関係がない(不遍充)」という方向になります。つまり、「誰も見ていないときに属性があるからといって、自相があることにはならない」という意味です。

3.論拠と帰結に必然関係がない(不遍充)。
  熱さや燃焼作用は、単なる現象の単なる属性であるゆえに。
  実例は、後から「山火事」と分別されるところの単なる現象の如し。

 それでは、自相の無い単なる現象が、どうやって「火」として分別されるのでしょうか。この仕組みについては、蟻の瓶と象の瓶のページで考察します。

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