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お化け屋敷の喩え

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お化け屋敷の喩え

 凡夫と、煩悩障を断じた聖者と、所知障も断じた仏陀の三者が対象をどう認識するかについて、伝統的に「幻術師の喩え」が説かれています。見世物小屋の中で幻術師が呪文をかけると、木や石が馬や牛の姿に見える・・・という手品のようなものです。これを見ている観客は、まんまと騙されてしまうので、凡夫の喩えです。幻術師自身は、観客と同じように見えても、からくりを知っているので騙されません。これは、煩悩障を断じた聖者の喩えです。そして、呪文の後から会場へ入った人は、木や石がありのままの状態で見えるので、仏陀の喩えです。

 この比喩をもう少し細かくアレンジして、E.中観の見解を持たぬ凡夫、D.中観の見解を有する凡夫、C.煩悩障を残している聖者、B.煩悩障を断じた聖者、A.所知障も断じた仏陀という五段階を説明する「お化け屋敷の喩え」を、以下に紹介します。

【比喩の設定】
窓にブラインドをして真っ暗な状態にした広い部屋の隅に映写機があり、白い壁に様々なお化けの映像をを次々と映し出しています。
部屋が真っ暗なうえ、このお化けの映像は非常によくできているので、まるで本物のように見えます。

【比喩が一般的に意味するところ】
ここで、お化けの映像が壁に見えることは、瓶の顕色や形色が眼識に顕現することの喩えです。
その映像がまるで本物のように見えることは、瓶が有情の眼識に自相成就(諦成就)として顕現することの喩えです。
本物のお化けは、瓶の自相(諦)の喩えです。
お化けの映像を本物だと思ってしまうことは、瓶を自相成就(諦成就)だと思い込んでしまう法我執(諦執)の喩えです。
特に、理性では本物でないと分かっていても、リアルな映像を実際に見たとき瞬間的に本物だと感じてしまうことは、倶生の諦執の喩えです。
お化けの映像を本物だと感じて恐怖感を生じることは、瓶を自相成就(諦成就)だと思い込んで貪りや執着を生じることの喩えです。
本物のお化けが実在しないことは、瓶に自相(諦)がないということ、つまり瓶の空性の喩えです。
映写機によって壁にお化けの映像が映し出されていることは、瓶は自相がなくても因や縁によって生起し、他に依存する縁起として存在し、その顕色や形色が顕現していることの喩えです。

【比喩によって凡夫から仏陀までの世俗認識を説く】
E.
この部屋の中にお化けが実在しないことを全く知らない子供は、お化けの映像を見て完全に本物だと思い込み、大変な恐怖に陥って部屋から逃げ出し泣き続けます。

これは、中観の見解を持たぬ(空性を比量によっても理解していない)凡夫が、瓶を完全に自相成就だと思い込み、それに強く執着し続けることの喩えです。

D.
この部屋の中にお化けが実在しないとよく知っている大人も、お化けのリアルな映像を見て驚き、瞬間的に本物だと感じて恐怖に陥り、部屋から逃げ出します。しかし外に出てから、「あのお化けは、本物のはずがない」と思い直し、恐怖はおさまります。そして、一目散に逃げ出したことを、少し恥ずかしく思います。

これは、中観の見解を持った(空性を比量によって理解している)凡夫も、実際に瓶をまのあたりにしたときは、自相成就としての顕現に瞞されて倶生の諦執を生じ、瓶に執着を起こすことの喩えです。その場を離れてから、中観の見解を再認識し、先刻の瓶が自相成就でないことを了解し、執着もおさまります。そして、日頃中観哲学を学んでいるにもかかわらず、瓶に執着を起こしてしまったという、その「分かっていても、やめられない」倶生の煩悩を克服すべき必要性を痛感するのです。

C.
お化けが実在しないということを直接確かめる手段として、賢い人は、強力な懐中電灯を持って部屋へ乗り込みます。そして、壁にお化けの像が映し出されたとき、そこに強い光を当てます。すると、お化けの映像は消えて、白い壁しか見えません。
しかし、いつまでも点灯していたら電池が消耗してしまうので、少し後で消灯します。すると、再び同じお化けの映像が見えてきますが、既に本物のお化けが実在しないことを直接確かめた後なので、恐怖感は起こりません。

この前半は、聖者の菩薩が無漏の等引に入ったとき、瓶の顕色や形色など世俗の顕現が全て認識対象から消え、瓶の自相がないこと、つまり瓶の空性だけが瑜伽現量の認識対象となっているという、そうした等引智の状態の喩えです。
しかし、いつまでも三昧に入っているわけにはゆかないので、等引から起きて日常の感覚に戻ります。すると、瓶の空性は現量の認識対象から消え、再び瓶の世俗の顕現が五感の認識対象として現われます。けれども、既に瓶に自相がないことを直接確かめた後なので、瓶に対する執着は起こりません。なぜなら、執着などの煩悩は、瓶のうえに増益した自相に対してのみ指向するからです。従って、後半は後得智の状態の喩えということになります。

C→B
このようにして、例えば人魂に対する恐怖感を克服できても、次にお岩さんのリアルな映像が出て来れば、それに対する恐怖感を生じます。そこで、前と同じように強力な懐中電灯の光を当て、本物のお岩さんが実在しないことを確認すれば、それに対する恐怖感も克服できます。他にも次々と出てくるお化けや幽霊に対する恐怖感を全て克服できるようになるまでには、結構時間が必要です。

これは、聖者の菩薩が等引智と後得智の組み合わせを何度も繰り返して修習し、煩悩を粗大なものから微細なものまで順番に断滅してゆくことの喩えです。見道に入って空性を現量で了解できるようになったからといって、全ての煩悩を一気に断滅できるわけではありません。例えば、他人の所有物である高価な瓶に対する貪りは完全に断てても、自分が長年愛用してきた瓶に対する執着は断ち難い・・・というようなケースはよくあるでしょう。いかなるときに、いかなるものが諦成就として顕現しても、それに対して微細な倶生の諦執を絶対に生じない・・・という段階に至るまでには、長期に渡る修道の実践が必要なのです。

B.
やがて、様々なお化けや幽霊がどんなパターンで出現しても、強力な懐中電灯の光を当てるまでもなく、もはや一瞬たりとも本物だと感じる余地が全くなくなり、恐怖感は完全に克服されます。

これは、菩薩が第八地に入り、いかなる場合にも微細な倶生の諦執を生じる余地が全くなくなり、貪りや執着などの煩悩が完全に断滅されることの喩えです。この段階に至って、倶生の諦執、二我執、染汚の無明、煩悩障など全て根絶され、輪廻という苦しみの世界に束縛されることもなくなるのです。

B→A
お化けの映像が本物だなどと、もはや一瞬たりと感じることはありません。しかし、その映像自体は、相変わらずとてもリアルに見えてしまいます。それは、部屋が真っ暗なせいで、本当の様子が見えないからです。懐中電灯は、光がとても強力だから、照らし出された部分のお化けの映像が完全に消えてしまい、映像が映し出される様子をつぶさに観察することなどできません。しかし、既に恐怖感は全くないので、懐中電灯を頼りに広い部屋を隅々まで調べてみます。そして遂に、窓を見つけ、ブラインドを開けることができました。

清浄三地の菩薩の場合、既に諦執を完全に断滅しているけれど、それでも瓶は自相成就(諦成就)として顕現します。かといって、等引智の状態では、瓶の世俗の顕現が完全に消えています。だから、自相成就でない瓶の顕現を現量に見ることはできません。そうなってしまう原因、つまり所知障を断滅するため、清浄三地の菩薩は、さらに等引に入って修習を続けます。そして第十地の最後有の菩薩は、金剛喩三昧という等引智の状態で、所知障を全て根絶することに成功します。

A.
窓から適度な明るさの光が差し込んだので、広い部屋全体の様子が、今や手に取るように分かります。隅にある映写機から白い壁にお化けの映像が映し出される過程、つまり本物のお化けが実在しないことと、お化けの映像が顕現していることの両方を、同時に直接確認できるようになったのです。それによって、この部屋で起きていることを、全て正しく知り尽くせるわけです。

これは、瓶の空性と、瓶の顕色や形色などの顕現の両方を、仏陀だけが同時に現量で了解できることの喩えです。つまり、自相成就(諦成就)でない瓶の顕現を現量に認識し得るのは、一切智の境地へ至って初めて可能なのです。自相などの実体性が全くないままに、映像の如く存在して効果的作用を及ぼすというのが、世俗の本当の在り方です。それを仏陀は、手に取るように直接御覧になり、完全に知り尽くしているのです。


※ 以上は単なる比喩です。一つの比喩で全ての事象をうまく説明できるわけではありませんから、よく注意してください。

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