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輪廻転生はあり得るか

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輪廻転生はあり得るか


心は存在するか?

 自然科学の立場からすると、「心」とは、脳細胞などの働きのうえに名づけられたものにすぎないかもしれません。つまり、心の実体を科学的に追求してゆくと、脳細胞や神経などの存在が見いだされるのみであり、それらと別に心が存在するとは認められない・・・ということです。こうした考え方を仏教哲学の文脈に当てはめれば、「心とは、脳細胞の働きのうえに仮設されたものだ。つまり、脳細胞などは実有であり、心は仮有である」と表現できるかもしれません。これはちょうど、説一切有部などが「人(補特伽羅)は、五蘊のうえに仮設されたものだ。五蘊は実有であり、人は仮有である」と主張しているところの、「人と五蘊の関係」に似ていると思いませんか?

 これに対して、仏教自身の側では、心というものを次のように考えます。心は、脳に依存し、脳を利用していますが、脳そのものではありません。脳は物質的なものですから、物質的な原因(精子と卵子、遺伝子、細胞分裂など)によって生み出されます。しかし、心は精神的なものであり、物質(色蘊)としては存在しません。ですから、心の生じる近取因 (それ自体が変化して結果たる心になってゆくところの、主な原因) を、物質的なものの中に見いだすことは不可能です。心と身体は、相互に依存しつつも、主な因果関係としては別々の流れを辿る・・・と仏教では考えています。

 そのようなわけで、仏教哲学の枠組みの中で、「心は脳の働きのうえに仮設されたもの」と主張する学派はありません。しかし、インド哲学の伝統では、ローカーヤタ(順世派)という学派が、ほぼそのような見解を主張していたようです。大昔に、随分と科学的な考え方をする思想家たちがいたものです。

 このローカーヤタと正反対の見解を擁しているのが、仏教の唯識派です。唯識派は、「脳や身体を含め、あらゆる物質的なものは、心の反映にすぎない。物質的なもの(色)を追求してゆくと、心と別にその存在を認められない。つまり、心だけが真実として成立(諦成就)しており、物質的なものが外側の対象(外境)として認識されるのは虚妄である」と主張しています。

 自然科学に慣れ親しんだ現代人からすると、これはとても極端な見方のように思えます。でも、よくよく考えてみると、唯識派の主張も一理あります。なぜなら、いかなる物質的なものも、心によってそれを認識することがなければ、その存在を知り得ないからです。例えば、精密な機械によって測定された実験結果も、もし誰かの心によって認識されなければ、一体どうやってそれを証明できるでしょうか? 機器に表示された数値を見るだけであっても、それは眼識という心によって知覚され、意識という心によって分別されているのです。こう考えると、「心のみが真実として成立しており、物質的なものはその反映だ」という主張も、私たちの経験や常識を根拠にするだけでは、それを簡単に否定できません。

 このように、一方ではローカーヤタの見解も説得力がありそうだし、他方ではそれと正反対の唯識派の見解も正しそうに思えてくるのは、一体なぜでしょうか? もし、物質的なものを鍵としてあらゆる存在(一切法)を見渡せば、ローカーヤタのような見解へ帰着することになります。逆に、精神的なものを鍵としてあらゆる存在を見渡せば、唯識派のような見解へ帰着することになるわけです。

 どちらを鍵とするかによって、全く正反対の結論が導き出されるという、そのことの意味をよくよく考えてみましょう。そうすると、「何かを鍵とすること自体が、実はあらゆる存在を理解しやすくするための手段にすぎず、究極的には無意味なのではないか」という疑問が湧いてきます。こうした疑問から、仏教哲学の最終結論、すなわち中観派の見解へ辿り着くことができるのです。

 中観派は、ローカーヤタと唯識派の双方を否定して止揚する形で(註)「心も物質も、他のものごと(原因や条件、部分、分別による名称の付与)に依存して成立(縁起)しているので、全て仮設(仮説)されたものである」と主張しています。

 「仮設されたもの」であれば、勝義という絶対的な次元に於て、何一つ成立しません。それが、「空」という意味です。しかしその一方、世俗という相対的な次元に於ては、「単なる存在」として成立しているのです。この「勝義無、世俗有」という存在感の設定を、心にも物質にも等しく適用する点が、中観派(特に帰謬論証派)の見解の特色です。これを、仏教用語で「外境内心有無平等」といいます。

 心にしろ物質にしろ、いかなる存在にも「実有」とか「諦成就」といった実体性を認めないこと。それが、中観派の見解を理解する第一のポイントです。そして第二のポイントは、「私たちの日常世界の全てが、そのような実体性を欠いた程度の存在感をもって成立している」という、この点を本当に納得し、その程度の存在感に満足すべきことです(ちなみに唯識派以下の学派では、心にしろ物質にしろ、鍵となる何らかの存在に実体性を付与しなければ、日常世界が成立していることを合理的に説明できない・・・と考えています)。

 以上の論議を前提に、冒頭の問題に戻ってみましょう。「心は存在するのか」。 中観帰派の立場から見ても、心は存在します。なぜなら、日常の正しい認識によって、その存在が知られるからです。それと全く同様に、物質も存在します。ですが、心の実体を追求すれば、どこにも見いだせません。物質についても、全く同様です。脳は、身体は、瓶は、柱は、全て存在するけれど、実体を追求したら何も得られないのです。

 『般若心経』は、「色即是空」という経文で、物質には実体性が全く無いことを説いています。続いて、「空即是色」という経文で、実体性を欠いた物質が単に存在することを説いています。さらに、「受想行識亦復如是」という経文で、心もそれと全く同様である点を明確に示しているのです。

輪廻転生はあり得るか

 前の「心は存在するか?」という問題は、輪廻転生を認めるか否かにも関連してきます。その論議の前に、まず次の点を確認しておきましょう。南伝の上座部仏教にしろ、北伝の漢訳大乗仏教にしろ、チベット仏教にしろ、凡そ今日存在している伝統仏教の全てが、輪廻転生の存在を認めています。二十世紀のインドでアンベードカル博士が提唱した新仏教、及び近代仏教学の影響で明治以降に変質した日本仏教の一部のみが、輪廻転生の存在を否定しているようです。しかし、だからといって、多数決のようにして輪廻転生の存在を証明することはできません。私たちは、この問題を、可能な限り論理的に考えてみましょう。

 まず、前述のローカーヤタのような見解を奉じていれば、必然的に輪廻転生を否定することになるはずです。事実、ローカーヤタは、前世の存在を認めていません。その理由として、彼らは「誰も見たことがないゆえに」と述べています。一般論として、ローカーヤタの立場は自然科学に近いと思いますが、この「見たことがなければ存在しない」という論理は、ちょっと非科学的で稚拙だと思いませんか?

 輪廻転生の存在を自然科学で証明することはできませんが、だからといってその非存在が証明されたことにはなりません。けれども、「心は脳のうえに仮設されたものにすぎず、脳や身体は実有であり、心は仮有である」という見解を本当に証明できれば、輪廻転生の非存在も論証できるはずです。なぜなら、仮設基体である脳が身体の死の時点で機能しなくなったら、その後まで心が存続することはあり得ないからです。そうはいっても、こうした見解は、仏教哲学の全学派によって否定されています。その点は、前に述べたとおりです。

 次に、唯識派のような見解を奉じていれば、必然的に輪廻転生を主張することになるでしょう。なぜなら、虚妄な外側の物質である身体が死を迎えたからといって、真実として成立している心まで消滅することはあり得ないからです。そして唯識派は、脳などに依存しなくても存在し得る根源的な心として「阿頼耶識(第八識)」というものを想定し、それが輪廻転生の主体だと主張しています。しかし何といっても、この唯識派の見解は、考え過ぎの観を否めません。特に、阿頼耶識の設定は、空や無我を逸脱する「勇み足」として、中観派から論難されることになります。

 では、その中観派の見解による場合、輪廻転生はどなるでしょうか? 心は、実体として成立していなくても、世俗の次元で存在しています。そのような心の生じる主たる原因は、物質的なものではなく、精神的なものに求めなければなりません。心でいくら思っても、現実に物質が生じることはありません。それと同様、物質にいくら働きかけても、心を発生させることは不可能です。中観派では、「前刹那の心から、次刹那の心が生じる」という精神的な因果関係を世俗の次元に設定し、それによって輪廻転生を説明しています。

 阿頼耶識のような実体的性を否定しつつ、あくまで世俗の次元に心の連続性を見いだそうというのが、中観派の死生観の特色です。前世から来世へ連続してゆく心とは、意識(第六識)の因果関係の流れです。私たちの生存中の意識は、脳細胞や神経に依存していますが、臨終の過程で微細化され、そうした粗い物質に頼ることなく存在し得るようになるといいます。このような内容は、密教の無上瑜伽タントラの理論を導入することで、より一層明確に説明できるでしょう。

 中観帰謬論証派では、世俗の次元に於ける意識の因果関係の流れを承認しつつも、それ自体を輪廻転生の主体だとは位置づけません。輪廻転生の主体は、そうした意識の流れに依存し、それを享受し、利用しているところの「単なる私」です。こう表現すると難解そうですが、生存中のことを考えれば簡単です。今の「私」は、私の意識の持ち主であり、私の意識は、私によって利用されています。持ち主と所有物は同一であり得ないので、私は、私の意識そのものではありません。そのような「私」は、実体を追求すれば何一つ見いだせませんが、世俗の次元では存在しているので、「単なる私」と表現されるのです。

 よく、「仏教は無我説だから、輪廻転生を認めていない」などという解説を目にしますが、それが正しくないことは、もうお分かりだと思います。「無我」や「空」によって否定されるのは、実体としての「我」です。しかし、輪廻転生の主体となる「単なる私」は、実体性を全く欠いた世俗の次元の存在にすぎません。もし、そのような「単なる私」も存在しないというならば、いま生きているときの私も存在しないし、私の心も、私の身体も、またそのように「“単なる私”は存在しない」と語っている人自身も、全く存在しないことになるでしょう。

 つまり、輪廻転生が成立するか否かは、勝義の次元で実体的な我が成立するか否かに関係するのではなく、世俗の次元で意識の因果関係の流れが連続するか否かにかかっているのです。それもつき詰めてゆけば、「実有である脳の働きのうえに仮設されたもの」ではない心が、世俗の次元で存在するか否かという点に、結局帰着すると思います。

聖教量への信頼

 以上のような論理に立脚して、私は輪廻転生があると信じています・・・と言ったら、「しかし、それは理屈のうえでのことだろう。君自身の心に正直に聞いてみたら、やはりローカーヤタのように“前世の存在など見たこともないのだから、信じられない”というのが本音じゃないのか?」という反論が返って来そうですね。事実、自分の前世など見たこともない(否、覚えていない)のは、確かにそのとおりです。だから、まるで見てきたかのように「前世がある」などと語ることは、今の私にはできません。

 しかし、見ていない、体験していない、覚えていないことを、人は全く信じられないのでしょうか? 例えば、本物の阿弥陀仏など「見たこともない」のに、深く信心している人は、実に多勢いるはずです。熱心な阿弥陀仏の信者に向かって、「阿弥陀様なんて、本当は存在しないんだよ」などと不謹慎なことをいう人は、ほとんどいないでしょう。ところが、信じている対象が輪廻転生となると、これを批判する人が後を絶ちません。なぜかというと、阿弥陀仏は素晴らしい存在であるのに対し、輪廻は苦しみの連鎖する汚れた世界でしかないからです。
 
 けれども、苦しみに関すること、望ましくないことだからといって、真実から目を背けるわけにはゆきません。なぜなら、たとえ輪廻転生を認めなくても、その一断片であるこの一生に於ける「煩悩→悪業→苦」という連鎖は、厳然として存在するからです。もし、それを心底から厭い、完全に断ち切る方法を求めるならば、仏教の中に答えを見いだすしかありません。そして仏教は、この問題を解決するやり方として、輪廻という大きな枠組みを丸ごと捉えたうえで、苦しみの連鎖を根こそぎ断ち切るという方法を採用しているのです。

 それゆえ私は、論理的には前に述べてきたような展開から、また教証としては輪廻転生を説いた諸経典(聖教量)に対する信頼から、輪廻転生を信じているのです。

 このように述べると、また次のような反論が返って来そうです。「君は“真実から目を背けるわけにはゆかない”などと格好のよいことをいっているけれど、本音はどうかな? チベット仏教は、輪廻転生を前提とした教理体系になっているわけだから、輪廻転生説を受け入れない限り、一歩も先へ進めないだろう。それを、先へ進みたいから、君は無理して輪廻転生を信じようとしているのではないか?」と。

 ならば、開き直って答えますが、私はそれでもよいと思うのです。例えば、阿弥陀仏に対する信仰も、もちろん最初から無条件の感謝や信心を確立できれば理想的かもしれません。しかし、「極楽浄土へ往生したい」という願望から、「そのためには阿弥陀様を信仰しなければいけない」と考え、少しづつ信心を固めてゆく・・・といった信仰形態も、現実には尊重すべきではないでしょうか?

 輪廻転生の件に話を戻すと、私個人としては、ツォンカパ大師に対する全面的な信頼が、全ての根本にあります。チベット仏教を自らの信仰とする動機は人それぞれですが、私の場合、ツォンカパ大師への憧れからこの道に入ったといえます。

 ツォンカパ大師の教えは、それを深く学べば学ぶほど、素晴らしさが身にしみて感じられます。大師の御著書は、少し努力すれば誰でも理解できるように、明解な論理構成をもって説かれています。遥か後世の堕落した時代に、私のような愚かな凡夫が学ぶであろうことまで御配慮なさり、二重三重の教導で鈍根の者にまで救済の網をかぶせる・・。大師の広大無辺な御慈悲のお蔭で、釈尊の教えに連なる一筋の光明を見いだしたとき、無知の暗闇を漂うばかりの私がどれほど感銘を受けたか、それは筆舌に尽くし難いものがあります。

 ツォンカパ大師の伝記を垣間見るならば、本当は文殊の化身でありながら、現われとしては一介の僧侶から身を起こし、学問と修行に精進努力を積み重ね、求道者としてあるべき姿を示してくださった偉大な御生涯が、誠実なお人柄とともに浮かび上がってきます。昔の聖者伝にありがちなウサン臭さなど微塵も感じられず、実直に教えを説き続けてくださったそのお姿に、私は長年追い求めてきたラマの理想像を見いだしたのです。

 ツォンカパ大師の教えを、金の真贋を調べるが如くによく吟味するならば、表面に現われている事象に関しては、世俗の正しい五感と矛盾しません。多少隠れている事象に関しては、世俗の正しい論理と矛盾しません。そして、甚だしく隠れている事象に関しては、経典を適切に引用し、自らの言葉の前後に矛盾がありません。

 以上の点から私自身は、心情的にも論理的にも、ツォンカパ大師の教説を百パーセント信頼できると考えています。そのツォンカパ大師が、仏教教理の集大成、仏道修行の指針として、満を持して説き明かした教え・・。それが「ラムリム」です。そして、この「ラムリム」が輪廻転生を大前提とした体系である点は、全く疑いの余地がありません。それゆえに、私は、「輪廻転生が存在する」と自信をもって言うことができるのです。
 
 こうしたツォンカパ大師に対する信心は、今まで述べてきた輪廻転生の論証と、決して矛盾する話ではありません。そうではなく、今までの論理的説明を私個人のレベルで根底から支えているものは何かという、その点に関わる話です。


(註)チベット仏教の伝統では、ローカーヤタの見解を、外道の中でも最も低いレベルのものと位置づけている。それゆえ、中観派の見解を解説するとき、直接の相手方としてローカーヤタを持ち出すことはない。実際には、三世実有の法体を是認して外境を実体視する説一切有部の見解と、外境の実在を否認する唯識派の見解とを止揚し、それらの中道という形で中観派の見解を設定することになる。ただ本稿では、近代の自然科学的な発想を考慮に入れ、それと近似するローカーヤタの見解を敢えて持ち出して論議した。

◎ チベット仏教の死生観と輪廻転生について関心のある方は、拙著『チベット密教 修行の設計図』第三章(pp.26-43)を御覧ください。

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