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曼荼羅とは何か

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曼荼羅とは何か

 「曼荼羅dkyil 'khor」の意味は非常に奥深いものですが、最も本質的な要素を一言でいえば、本尊=仏陀の智慧の面から御覧になった世界です。これが本来の曼荼羅であり、「智の曼荼羅」といいます。具体的にどのような世界かは、仏陀御自身が様々な密教タントラの中でお説きになっています。

 そうした諸タントラの所説をもとにして、密教行者は、本尊ヨーガの中で曼荼羅を瞑想します。これを「修習義bsgom donの曼荼羅」といいます。私たち密教の実践者にとっては、修習義の曼荼羅を正しく理解して観想することが、一番重要なのです。

 そのような曼荼羅を、実際に目に見える図画として表現したのが、「所描bri chaの曼荼羅」です。砂曼荼羅は、その最も正式な表現方法です。

 曼荼羅について正しく知るには、「智-修習義-所描」という関係性を理解することが大事です。学芸員的な解説はいくらでも出来ますが、一番本質的な要素はこの点に尽きると思います。

 修習義という用語は、一般に馴染みのない言葉ですけれど、要するに私たち密教の実践者が心の中で観想すべき曼荼羅の在り方です。普通に考えると、「砂曼荼羅の図形を、そのまま心でイメージすることかな・・」と思うかもしれませんが、そうではありません。

 修習義の曼荼羅の構成は、大別すると、所依と能依の曼荼羅rten dang brten pa'i dkyil 'khorになります。前者は諸尊の住する環境世界、後者はそこに住する諸尊そのものです。

 所依曼荼羅の修習では、結界を巡らした中に地水火風の輪を重ね、その上に雑色蓮華や雑色金剛などを生起します。それから、雑色金剛の中心部に四角い楼閣を生起し、その細部を観察します。

 能依曼荼羅の修習では、楼閣内陣の中央や四方などの座に主尊と眷属諸尊を生起し、それらの行相を詳細に観察します。どの位置にどのような諸尊を安置するかは、それぞれのタントラや流儀によって異なります。

 以上から分かるように、修習義の曼荼羅は立体的な世界です。砂曼荼羅など所描の曼荼羅は、これを平面で表現したものです。だから、「砂曼荼羅のこの部分が楼閣の壁で、この部分が門・・」といった対応関係を熟知すれば、所描を参照して修習義をイメージできるようになります。

 修習義の曼荼羅は立体的な世界だという話をしましたが、チベット密教の伝統には、それを模型のように表現した立体曼荼羅blos bslang dkyil 'khorというものがあります。例えば、ラサのポタラ宮にも「カーラチャクラ」などの立体曼荼羅が安置されているし、日本で以前に実施されたチベット密教の展覧会で公開されたこともあるので、拝観なさった方も多いと思います。こうした立体曼荼羅は、初心の行者が修習義をイメージするとき、確かに便利です。

ポタラ宮に安置されているカーラチャクラ立体曼荼羅

 ならば、「立体曼荼羅を使えば、砂曼荼羅から修習義をイメージするような面倒なプロセスは必要ないのでは?」という疑問が、当然湧いてきますよね。ところが、そうでもないのです。

 瑜伽行者は修習義の曼荼羅を、仏陀自身が御覧になっている完全に清浄な世界(智の曼荼羅)に、限りなく近似させて観想しなければいけません。つまり、この世の物質的な限界を遥かに超越した素晴らしい世界を、心の中に立ち上げる必要があるのです。いかに金銀財宝を惜しみなく使って立体曼荼羅を建立しても、それは到底、観想すべき修習義の素晴らしさには及びません。

 砂曼荼羅など平面的・抽象的な所描を参照して、立体的・具体的な修習義を観想するプロセスは、瑜伽行者がこの世の物質的限界を超えた世界を構築するために、イメージを純化させつつ膨らませてゆくちょうどよい機会を与えてくれるのです。

グヒヤサマージャ聖者流三十二尊曼荼羅;チャト・リンポチェ提供

 それとともに、もう一つ、立体曼荼羅より所描曼荼羅の方が優れている点があります。これこそ実践者ならではの視点かもしれませんが、修行者が曼荼羅のどの位置にでも飛び込んでゆき(もちろん、心の中でですよ・・笑)、その位置から見える世界をイメージできる点です。

 密教の本格的な修行を、本尊ヨーガlha yi rnal 'byorといいます。その中でも中心となる行法を、我生起bdag bskyedといいます。これは、行者が自分自身を曼荼羅の主尊として立ち上げる瞑想です。つまり密教の瞑想では、曼荼羅の中央の座からの見え方をイメージすることが、非常に大切なのです。

 立体曼荼羅を見ていると、どうしても外からの視点になってしまいます。それに対し、所描曼荼羅は展開図のようなものだから、慣れれば中央の座からの視点を簡単にイメージできます。もちろんこれは、その本尊の灌頂を受けた密教行者が我生起を実践する場合の話です。一般論として、曼荼羅を外からの視点で拝むのがいけないというわけではありません。


 曼荼羅の話を、実践者の立場から書いてきましたが、いかがでしたか? 様々な機会に曼荼羅の説明を聞いたり読んだりしてきた方は、もしかすると次のように感じるかもしれません。「曼荼羅は全宇宙を象徴するもの。この一番大事なポイントが欠けているのでは?」。

 確かに、そうです。しかし私は、敢えて今まで「宇宙」の話をしませんでした。なぜかというと、初めに全宇宙を象徴する絶対者を設定し、それと自己との合一を目指してゆくような考え方では、密教の正しい実践にならないからです。

 では、曼荼羅と宇宙の関係はどうなのかといえば、こういうことです。最初に書いたように、本来の曼荼羅(智の曼荼羅)は、本尊=仏陀の智慧の面から御覧になった世界です。仏陀は一切智ですから、全宇宙のあらゆる存在(一切法)を直観的に了解なさっています。なので、「仏陀の智慧の面から御覧になった世界」であるならば、それは必然的に全宇宙となるのです。

 つまり、「初めに全宇宙=絶対者ありき」ではなく、「誰でも仏陀の境地を得れば、全宇宙を直観了解することになる」という考え方です。この両者は、似ているようで、大きな違いがあります。

 修習義の曼荼羅は、瑜伽行者が自己を本尊として立ち上げる我生起のプロセスで、智の曼荼羅に近似させて観想するものです。自分自身が本尊であり、曼荼羅の中央の座から自分が見ている世界は、全宇宙そのものである・・・というふうに思念を重ね、本尊の明確な顕現と慢(本尊としての自覚)を修習してゆくのです。

 仏陀が全宇宙のあらゆる存在を直観了解なさるとき、仏陀だけに可能な究極の認識方式 (勝義・世俗二諦同時の現量了解) の特性により、認識の主体と対象は一体のものになります。それゆえ、仏陀の法身 (仏智とその法性) は、全宇宙の森羅万象に遍満しているのです。仏陀御自身の側からすれば、「宇宙=曼荼羅の全体が私である」という感覚になります。

 大日如来や持金剛仏などを「全宇宙そのもの」というのは、そのような意味からです。決して、「初めに絶対者ありき」ではありません。お釈迦様や昔の大成就者たちが仏陀の境地を得て「宇宙=曼荼羅の全体が私である」という感覚になった、その在り方自体が大日如来や持金剛仏なのです。

 そして私たち密教の実践者も、未来に同様の在り方を実現できるよう目指して、修行に精進しなければいけません。本尊ヨーガの中で修習義の曼荼羅を観想するのも、そのために意識を習熟させる訓練と位置づけられます。だから瑜伽行者は、曼荼羅の中心の座からの見え方をイメージするとともに、「そこから見えている全世界も、また自分自身にほかならない」という感覚を修練する必要があります。

※ この文章は、ブログページで2010年6月27日から7月7日にかけて、チベット密教の曼荼羅について説明を試みた際のものです。ブログ形式で小分けになっており、他の話題も混じって読みにくいため、改めて「教理の考察」の一環としてまとめてみました。なお画像は、今回新たに添付したものです。

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