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チベット仏教と阿弥陀仏

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チベット仏教と阿弥陀如来

齋藤 保高 さいとう やすたか
チベット仏教普及協会《ポタラ・カレッジ》事務局長


 赤い目隠しをつけた弟子が、合掌した両手の中指の先で花弁を持ち、壇上に安置されている曼荼羅の楼閣の東側へ進み出る。ラマに導かれて、真言を誦えるとともに、花弁を曼荼羅の上へ落とす・・・。

 これは、チベット密教を伝授する大灌頂に際して、必ず行なわれる「投華得仏」の儀式だ。もしこのとき、花弁が中心より西側の赤い部分へ落下し、ラマに「法金剛(チュー・ドルジェ)」と告げられたら、その弟子は阿弥陀仏と縁を結んだことになる。

密教の阿弥陀仏

 このように、チベット仏教の修行者が「阿弥陀」という仏陀を身近に感じる一つの場面は、曼荼羅を構成する五仏(阿閃・大日・宝生・阿弥陀・不空成就)の中の一尊としてだ。これはいわば、密教という枠組みの中で捉えた阿弥陀仏にほかならない。

 チベット密教の最奥義とされる『秘密集会タントラ』聖者流の生起次第儀軌によれば、阿弥陀(無量光)は、主尊阿閃金剛の西側に鎮座し、阿閃の宝冠を戴き、身体の色は赤く、三つの顔と六本の手があるという。中心の顔は赤、右は黒、左は白である。右の三本の手で蓮華・金剛杵・法輪を、左の三本の手で金剛鈴・宝珠・剣を持ち、宝の荘厳や絹の衣をまとっている。また、五智の中で妙観察智を、五蘊の中で想蘊を象徴し、制御すべき煩悩として執着と関係がある。そして、地・水・火・風の四界の中で火界を象徴する白衣母を、自らの明妃にしているという。

 さらにまた、修行者が瞑想の中で自己の身体を『秘密集会』三十二尊の曼荼羅全体と一体化させるとき、「私の眉間から喉までの部分は、阿弥陀仏だ」とイメージする。続いて修行者は、一切如来の語金剛(口密)の象徴として、別の阿弥陀父母尊を虚空に観想する。それを赤い光に変え、自分の舌へ溶け込ませることにより、仏陀の語金剛と一体化するのだ。ちなみにこのとき、身金剛(身密)の象徴は大日、心金剛(意密)の象徴は阿閃であり、それらも自分へ溶け込ませることにより、修行者は「自ら三金剛無差別の大持金剛仏になった…」と自覚する。

 このように、密教の瞑想の中に登場する阿弥陀仏は、五仏とか三金剛という枠組みの中で、自らに配当された役割りを演じている。これは、大持金剛という根本仏の徳性を分析的に展開し、その一翼を担うものにほかならない。だとすれば、大持金剛仏とは、一体何だろうか。個々の修行者にとって、それは自らの根本ラマ(密教の恩師)そのものだ。もっと普遍的には、仏教の教主たる釈尊である。そして修行者自身も、未来に大持金剛仏の境地を実際に得て、自らの仏国土として曼荼羅を展開し、西の方角に阿弥陀仏の姿を現わすのだ。以上が、密教という最も高度な次元で捉えた阿弥陀仏の位置づけである。

阿弥陀仏と観自在菩薩

 日本人なら誰でも知っている「南無阿弥陀仏」の六字名号・・・。チベットで、それと同じような役割りを果たしているのは、「オーム・マニ・ペーメ・フーム」という観自在(観世音)の六字真言だ。まさに観自在は、チベット仏教を代表する本尊であり、宗派や僧俗の区別なく篤い信仰を集めている。人々は、行住座臥に六字真言を誦え、来世の幸せを観自在へ祈っている。

 日本人の場合、そうした祈りを捧げる対象として思い浮かぶのは、まず第一に阿弥陀仏だろう。そして観自在は、「八難救済」などに象徴される如く、どちらかといえば現世利益を祈る対象とされてきた。ところがチベットでは、現世利益ならば、観自在と表裏一体の関係にある女尊ターラー(多羅)へ祈願するのが一般的だ。つまり、ごく単純に図式化してしまえば、日本仏教の伝統の中で阿弥陀仏が果たしてきた役割りの一部を、チベットでは観自在が受け持っており、同様に日本で観自在が果たしてきた役割りの一部を、チベットではターラーが受け持っていることになる。しかしこれは、信仰形態の表面的な現象を捉えた論議にすぎない。経典などに基づいて考察すれば、チベットの阿弥陀仏と日本の阿弥陀仏とが、根本的に異質なものでないことは明らかだ。

阿弥陀仏と極楽往生

 ところで、中国や日本の浄土信仰にも通じるような教えは、チベットでも、主に一般社会の人々を対象にして説かれてきた。来世に生まれるべき理想の仏国土として、誰もがよく知っているのは、観自在の補陀落浄土、弥勒の兜率天内院、そして阿弥陀の極楽浄土である。実際にこうした浄土へ往生するためには、①繰り返し浄土のことを心に念じて祈願する、②善根を積む、③菩提心を発する、④回向するという四つの修行を、今生に於て実践する必要がある。信心や称名だけで直ちに往生し得るという思想は、チベット仏教の伝統の中で、ほとんど見いだすことができない。つまり、チベットの浄土信仰は、密教の高度な瞑想に慣れていない人々でも実践できるという意味で、易行として説かれているけれど、自力の修行を完全に否定するものではない。

 前述の四つの修行のうち、②以下は大乗仏教全般に共通するものだ。①に関しては、もし極楽浄土への往生を願うならば、そこがいかに素晴らしい場所(器世間)であるか、どんなに素晴らしい人々(有情)が住んでいるかを具体的にイメージし、「自分もそこへ生まれたい」と強く望むことが重要である。中でも、極楽浄土の教主たる阿弥陀仏については、その姿や功徳や働きなどを詳しく観じなければならない。このときに観想する阿弥陀(無量光)の姿は、身体が赤で一面二臂、両手を定印に結んでいる。宝冠や荘厳を身につけず、僧衣をまとった梵行の相を現わしている場合が多い。このようにイメージした阿弥陀仏を対象に、疑いのない信心を確立し、真摯な祈願を重ねてゆくことこそ、極楽往生を実現する鍵となる。

 さて、浄土への往生を確かなものとするため、チベットでは「遷移」という密教的な修法が行なわれている。これは、来世へ向かう微細な心の連なりを浄土へ導く秘法だ。実際に臨終の床で、立ち会った僧侶や行者が修する場合もあるし、未来に心が正しく浄土へ向かうよう、生前から本人が修行を重ねて心を慣らしてゆく場合もある。その具体的な方法は、様々に説かれているけれど、一例を要点だけ紹介してみよう。まず、死者の頭頂に根本ラマと一体の阿弥陀仏を観想し、救いを求めて祈願する。それに応えて、阿弥陀仏の胸から光の鉤が現われ、死者の頭頂から胸の下方まで入ってゆく。そこで微細な心の連なりを捉え、次第に喉・眉間・頭頂へと引き上げ、最後に頭頂から出て阿弥陀仏の胸へ溶け込む。そのように強く観想した力に導かれ、微細な心の連なりは実際に極楽浄土へ赴き、阿弥陀仏の前で来世の生を受けることになるという。


無量寿仏;ポタラ・カレッジ所蔵タンカ


有暇具足の大切さ

 では、極楽浄土へ往生するのは、一体何のためだろうか。それは、一言でいえば、仏道修行をやり遂げるのに適した境遇を手中にするためだ。そのような恵まれた境遇のことを、チベット仏教では「有暇具足」といい、十八の条件をあげている。例えば、この地球上へ人間として生まれることは、とても得難い貴重な機会に違いない。しかし、それだけでは、有暇具足の条件として十分でない。世界の総人口のうち、一体何割の人々が、仏教を正しく学び修行しているだろうか。そう考えれば、来世に仏道修行を続けてゆこうと望んでも、まるで奇跡のように難しいといわざるを得ない。だが極楽浄土の場合、そこへ生まれることさえできれば、有暇具足が必ず保証されているという。阿弥陀仏のもとで修行を続け、いつか必ず自分自身も仏陀の境地へ辿り着けるのだ。

 ところが、そうした浄土に生まれた菩薩たちでさえ羨むほどの有暇具足の好条件を、実は現在の私たちは手中にしている。それは、チャクラ・脉管・風・滴といった密教用語で表現される微細な身体構造で、この世界(沙婆世界南贍部洲)の人間に特有の資質とされる。無上瑜伽タントラという最も高度な密教を正しく実践し、こうした精神生理機能をうまく活用できれば、極楽浄土の菩薩たちよりも早く仏陀の境地を得られる可能性を、私たち人間は秘めているのだ。今生で仏教をよく学び、密教を徹底的に修行することができれば、この世界はそのまま密教の浄土となる。無上瑜伽タントラの熟達した修行者は、もし条件が完全に揃えば、この一生で仏陀の境地を得ることも不可能ではない。それが無理でも、死を迎えたとき、覚りを実現する最大の好機が訪れるという。仮に覚りまでは至らなくても、臨終時の瞑想の力で、来世に再びこの世界へ生まれて密教の修行を続けられようになるはずだ。そのような修行者の場合、極楽浄土への往生を願うことは、もはや必要性がないだろう。

 いずれにしても、いま手中にしている有暇具足を、私たちは有意義に活用しなければならない。そのためには、末長く仏道修行に精進できるよう、今生の長寿を祈願することも欠かせない。チベット密教では、阿陀陀(無量寿※)を本尊とした「長寿灌頂」の儀式が、しばしば行なわれている。このときに観想する阿弥陀仏の姿は、身体が赤で一面二臂、両手を定印に結び、その上に不死の甘露を満たした瓶を乗せ、宝冠やきらびやかな荘厳をまとっている。本尊をこのようにイメージしつつ、ラマから実際に長寿の甘露や丸薬などを授かり、修行に精進する決意を新たにするのだ。

 以上、チベット仏教の実践面を中心に、様々な形で登場する阿弥陀仏を概観してきた。そうした中で浮かび上がってきた一つの教えは、「有暇具足の大切さ」ということかもしれない。


※・・・チベットでは、曼荼羅の五仏の一尊や西方極楽浄土の教主としての阿弥陀を無量光、長寿の本尊としての阿弥陀を無量寿といい、根本的には両者を一心同体とみるが、現われとしては別個の仏陀と考えている。


本稿は、『大法輪』誌平成13年9月号(pp.114-117)に、特集「阿弥陀如来のすべて」の一環として掲載されたものです(写真を除く)。大法輪閣編集部の御了承を得て、再掲載しました。

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