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蟻の瓶と象の瓶

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蟻の瓶と象の瓶

 誰も知らない火事のページで述べたように、中観帰謬論証派は、世俗の次元でも自相を否定します。この点が、中観二派の見解の落差の、最も本質的な部分です。 

 では、帰謬論証派の言うように世俗の自相が無いのなら、私たちは一体どのようにして、諸存在を分別・認識できるのでしょうか? その仕組みについて、これから少し考察してみましょう。

 帰謬論証派が「世俗の次元でも自相を否定する」といっても、様々な存在の属性を否定するわけではありません。自相rang gi mtshan nyidとは、「認識対象自身の側で成立している固有の性質や作用」です。この意味づけの中では、マーカーを塗った部分が特に重要です。もしその部分がなければ、認識対象の単なる属性になります。つまり、「それをそれたらしめている本質が、それ自身の側で成立している」と私たちが思い込んでいるときの、「その本質」が自相なのです。

 例えば、私の眼前にテーブルがあり、その上に瓶があるとしましょう。本当のところこの段階で、私は「目の前に何らかの世界が広がっている」と知覚しているにすぎません。その「目の前の何らかの世界」のうち、私は分別の力によって、瓶に注目したとしましょう。しかしこの段階でも、私にとってその瓶は、本当のところ「目の前の世界の一部たる何物か」にすぎないのです。しかし、その「目の前の何物か」は、様々な属性を具えています。青い色、30cmの高さ、胴体が膨らんだ形状、陶器製である、水を貯めることができる、etc.。このとき私は、「胴体が膨らんだ形状」と「水を貯めることができる」という二つの属性に着目します。そして、「これは瓶だ」と分別するのです。

 実際のところ、この二つの属性は、他の様々な属性と同様、「目の前の何物か」の単なる属性にすぎません。この二つに着目し、それらによって「目の前の何物か」を瓶として分別するというのは、あくまで私の側の都合であって、「目の前の何物か」の側で成立している自相ではありません。

 例えば、同じ瓶を小さな蟻が見たら、自らの行く手を遮る巨大な壁として分別するかもしれません。大きな象が見たら、石ころなどと同様に、足で踏み潰してゆくべき小さな突起物として分別するかもしれません。蟻や象にとっては、「目の前の何物か」の胴体が膨らんだ形状や水を貯める作用などは、多分どうでもよいことだと思います。

 このように考えると、目の前に広がっている何らかの世界に「瓶がある」と設定することは、現代の人間である私の分別によって仮説したとしかいいようがないのです。これが、瓶の自相を否定しつつ、世俗の次元に瓶を設定する・・・という、帰謬論証派が説明する認識プロセスです(ちなみに、「口が細く、胴体が膨らみ、水を貯める作用があるもの」というのが、仏教論理学に於ける瓶bum paの定義です)。

 分別による認識の仕組みを、認識主体の側から検討すれば、次のようになります。まず、「胴体が膨らみ、水を貯めることができる」という条件に該当しない部分を観念の中から全て排除したとき、残った巾が「瓶の概念」であり、その概念に「瓶」という名称が結びついている・・・という状況が先にあります。こうした状況は、経験や教育など通じてもたらされます。

 ある概念の巾と名称が、一定範囲の社会の共通認識となっているとき、それを「世間極成」といいます。そして、瓶の概念と名称が既に世間極成となっている状況で、私たちは「目の前の何物か」が有する多くの属性の幾つかに着目し、それらが「瓶の概念」の巾の中に入っていると判断された場合、「これは瓶だ」と分別によって認識するのです。

 「瓶の概念」の巾は、世間極成によって規定されますが、時代や文化や教育の影響で、その境界線は微妙に変化します。もっと細かくいえば、個人個人でも僅かづつズレています。このように曖昧な概念の巾によってしか物事を認識・判断できないのなら、私たちの社会生活の現実(例えば、一定規格の製品を生産・販売する行為など)と合わないのではないか・・・と思いがちですが、そうではありません。

 概念の巾のズレをなくし、境界線をできるだけ厳密に確定するために導入されたのが、数量という考え方です。数量によって概念の巾を規定してゆくことは、主に自然科学という分野に於ける「世間極成」です。こう考えれば、まさに数量こそが分別による認識の最たるものだという点を、よく理解できるでしょう。縁起の第三層、つまり「分別によって仮説する」という考え方であらゆる存在や現象を説明する中観帰謬論証派の見解は、物事を数量化して処理する科学的手法と、何ら矛盾するものではありません。

 前にも述べたように、「目の前の何物か」には、自相がなくても様々な属性があります。それらの属性の中には、数量によって厳密に表現し得るものもあるでしょう。そうした数量的属性を有する「目の前の何物か」が、数量によって境界線を明確化したAという概念の巾の中に入る場合、「これはAである」と、いわば科学的に分別されるのです。こうして、縁起の第三層と数量との関係を説明することができます。

 また、一定の数量的属性を有する原因や条件によって生じた結果は、必ず一定の数量的属性を有するはずです。しかしこれは、因果関係の必然性にすぎず、自相ではありません。例えば、赤い絵の具だけで描いた馬の絵は、必ず「赤い馬の絵」になる・・・というのと同じことなのです。こうして、数量的な縁起の第一層(原因と結果の依存関係)を説明できるでしょう。

 さらに、一定の数量的属性を有する諸部分によって構成された全体は、必ず一定の数量的属性を有するはずですが、これも自相ではありません。部分の「単なる数量的属性」を合計したものが、全体の「単なる数量的属性」となっているにすぎないのです。こうして、数量的な縁起の第二層(部分と全体の依存関係)も説明できるでしょう。

 瓶は確かに、水を貯める目的で、人間が作ったものです。「このような材料を使い、このような形に加工したら、確実に水を貯めることができる」というのは、物理的因果関係の必然性です。人々がそれを経験から学び、便利だから人間社会に広まり、やがて世間極成となります。「水を貯める」という目的で、そのような物理的因果関係に沿って人工的に作られた瓶であっても、それが自相成就ではない点は、前に吟味したとおりです。

 中観帰謬論証派の見解では、世俗の次元でも自相を否定して、常辺を完全に排除します。その一方、世間極成を一応の拠りどころとして縁起の第三層を認め、断辺を完全に排除します。常辺の壁と断辺の崖のはざまに、微妙なバランスで「中道」が確保され、まさにそこだけに「世俗有」という現実の存在感を設定し得るのです。慈悲の対象である一切衆生も、帰依の対象である三宝も、私たちの大切なものは全て、中道の均衡状態に於て世俗有として成立しています。

 しかし、世俗の自相の否定と縁起の第三層を本当に理解するのは、非常に難しいことです。だからこそ、中観帰謬論証派の見解に到達する前段階として、私たちの常識的なレベルに近づけた多少平易な中観思想、つまり世俗の次元で自相を承認する中観自立論証派の哲学が説かれたのだと思います。だとすれば、帰謬論証派と自立論証派の見解の落差にこそ、空性と縁起の最も絶妙な部分が隠されているわけであり、それを徹底的に追求して会得することが、私たちの課題だといえるでしょう。

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