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チベット仏教と般若心経

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チベット仏教と般若心経

齋藤 保高 さいとう やすたか
チベット仏教普及協会《ポタラ・カレッジ》事務局長


魔除けの修法

 もう十八年前になるが、初めてチベット密教の本格的な伝授として「ヤマーンタカ」の大灌頂を受けたときのことを、筆者は今でも鮮明に覚えている。ヤマーンタカとは、文殊の忿怒の姿であり、チベット仏教ゲルク派では、宗祖ツォンカパ大師の守護尊として極めて重視している本尊だ。日本密教でいえば、大威徳明王に一応相当する。

 その法儀の冒頭で、大阿闍梨デンマ・ロチュー・リンポチェ師は、チベット文『般若心経』を実に勢いよく読経なさった。そして、「ティヤター・ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサムガテー・ボーディソーハー」という真言念誦に続けて、手を三遍叩きながら「聖なる三宝の教えに具わった力により、〔魔障は悉く〕退散せよ、消滅せよ、鎮まれよ」とお誦えになった。これは、密教の伝授を始めるにあたり、様々な障害を防ぐ魔除けの修法である。

 このようにチベット仏教の伝統では、実践的な側面として、『般若心経』を魔除けの霊験あらたかなお経と位置づけている。なぜかといえば、魔神や悪霊などが最も恐れるのは真理であり、まさに『般若心経』こそは、究極の真理たる空性そのものを直接説き明かした経典だからだ。そこには、日本の『大般若経』転読法要と共通する発想があるかもしれない。

 より深い意味で考えるなら、そうした外的な魔障というのも、最終的には私たちの心の内なる魔、すなわち諸煩悩の働きに相応している。そして、様々な煩悩の大もとには、凡夫の習性となっている実体視の心、すなわち我執がある。この我執を根本から断滅するのが、空性を直観的に覚った智慧にほかならない。『般若心経』が魔除けのお経と位置づけられる理由も、突き詰めればこの点にゆきあたる。

チベット文『般若心経』

チベットの般若心経は大本

 チベット文『般若心経』は、サンスクリット文の原典から直接翻訳されたものである。ただ、日本で馴染み深い玄奘三蔵訳のような小品ではなく、序分と流通分を具えた大品である点が特色だ。そこでまず、チベット仏教の伝統的な解釈により、大品『般若心経』の流れを概観してみよう。

 釈尊が霊鷲山でこのお経を説くとき、舎利弗尊者を始めとする比丘の大聖者や、観自在菩薩を始めとする菩薩の大聖者など、無数の所化たちが集まった。すると釈尊は、自ら教えの言葉を語ることなく、空性を直観了解する三昧に入ってしまう。そして、この三昧の威力によって、舎利弗尊者と観自在菩薩を加持する。分かりやすくいえば、仏陀の深い瞑想状態から生じる祝福と浄化の力によって、この二人が釈尊の密意に導かれて問答を交わすことになるのだ。そのことは、チベット文の経文に「仏陀の力により、舎利弗長老が観自在菩薩摩訶薩へこう尋ねた」と明確に説かれている。

 だから、舎利弗尊者の問いに答える形で観自在菩薩の口から語られた内容こそが、この教えの場で釈尊が説こうと意図した中身にほかならない。それもまず、普通の弟子たちのレベルに合わせ、分析的な言葉を使って提示される。最初にその総論が「五蘊は自性が空である(五蘊皆空)」と説かれ、続いて各論が「色は空である。空性は色である(色即是空、空即是色)」以下の経文で示されている。この総論と各論の部分が、実質的に『般若心経』の教えの中心となる。経文の細かい表現や解釈の相異は別にして、この部分の大筋の流れは、チベット語訳も玄奘訳も一致している。

 そのようにして分析的な言葉を使った教えを説き終えてから、観自在菩薩は、理解力の優れた弟子たちのために、今まで説示してきた中身を短い真言で一気に表現する。それが、「ティヤター・ガテー・ガテー(羯諦羯諦)・・・」という真言にほかならない。

 観自在菩薩がこの真言を説き終えると、釈尊が三昧から立ち上がり、「善いかな、善いかな、善男子よ、かくの如くなり」と観自在菩薩を称える。この言葉によって、舎利弗尊者と観自在菩薩の問答が仏陀の真意を正しく示している点が承認されたことになる。それを受けて、集まっていた無数の所化たちが喜び、釈尊の教えを大いに礼賛した・・・というのが、チベット文『般若心経』の大まかな流れである。

推論から直観へ

 そこで次に、チベット仏教の中でも、筆者が学んでいるゲルク派の伝統教学をもとに、『般若心経』の教えを理解する要点を概観してみよう。まず、総論というべき「五蘊皆空」の経文である。この箇所は、チベット文では「五蘊は自性が空」というふうに表現されている。「自性が空」とは、「自性が全く無い」という意味だ。「自性」とは、簡単にいえば「実体」である。それゆえ、「五蘊は自性が空」は、「五蘊には実体が全く無い」と一応解釈できる。

 しかしここで大いに考えるべきなのは、「実体とは何か」という点だ。これを曖昧にしたままで「五蘊が有る」とか「実体が無い」とか語っても、ほとんど意味をなさない。自性や実体は、空によって否定されるべきものである。ゲルク派の伝統教学では、「否定されるべきものが何かをきちんと認識すること」が極めて重視され、「否定対象の掌握(ガクチャ・グーズィン)」という一つの学習課題になっているほどだ。

 空によって否定されるべきものは、仏教の各学派の見解に基づいて、段階的に設定する必要がある。チベットの伝統では、インド仏教の思想哲学を、説一切有部・経量部・唯識派・中観派という四段階に分け、中観派の中でも帰謬論証派の見解を最高のものと位置づけている。本稿では、煩雑さを避けるため、最終結論となる帰謬論証派の立場で論議を進めてみよう。そうすると、空によって否定されるべきものは、「凡夫の習慣的な実体視の心(倶生の二我執)が向かっている先」ということになる。

 例えば、色蘊(物質的なもの)の代表として、眼前に瓶があると仮定しよう。私たちがその瓶を認識するときは、「この瓶をこの瓶たらしめている本質的なものが、この瓶それ自体の側にある」と自然に思い込んでいる。これが、凡夫の習慣的な実体視の心だ。しかしながら、その「本質的なもの」を徹底的に追求してゆくとと、結局は何一つ「これだ」と掴めるものがない。それゆえに、「色は空である」ということになる。けれどもこのとき、最初に認識していた瓶自体が存在しないのかといえば、そうではない。空であるところの瓶は、確かに眼前に存在する。だから、「〔瓶の〕空性は色である」と説かれているのだ。

 では、「それをそれたらしめている本質的なもの」が瓶自体の側に全く無いのに、どうやって瓶という存在が成立しているのかといえば、他のものごとに依存する在り方で仮に設定されているのである。ここでいう「他のものごと」の具体例は、原因と条件、構成部分、分別による仮説という三層で考えることができる。そうした「他のものごと」に依存して成立している在り方を、縁起という。従って、空と縁起は、表裏一体の関係である。

 このように考察を深めてゆけば、空を推論的に理解することは可能である。しかしそれは、まるで眼で見たような直観的な体験ではない。そこで、この推論理解によって得られた結論をテーマとして、次の段階では止観の瞑想を修習する必要がある。それの徹底的な積み重ねにより、いつか空を直観的に覚ることも可能になる。この空を直観的に覚った智慧の面で体験される世界は、「虚空の如き空」と表現される。そこでは、眼前の瓶の空性だけが直観了解の対象となり、瓶の色彩や形状は認識対象から外れている。従って、この智慧の面での体験を敢えて言葉で表現するなら「眼耳鼻舌身意も無いし、色声香味触法も無い(無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法)」ということになる。

 『般若心経』で「何々が無い」と説かれている経文は、日常の心の面から理解するなら、「何々には実体が無い」と解釈すべきである。そうでないと、虚無論に陥ってしまう。しかし、仏教の聖典の言葉は、必ずしも我々の日常の心の面で体験できる世界ばかりを表現しているわけではない。空性を直観的に覚った智慧の面でどのような世界が体験されるかを想像できなければ、『般若心経』の本当の理解は難しいだろう。

菩薩の修行における「五道」

 そこでまた考えるべきなのは、止観の修行に大変な努力を重ねてまで、なぜ空性を直観的に覚る必要があるのかという点だ。「それが究極の真理だから」というのは、そのとおりだけれど、決して十分な答えではない。本当の必要性は、空性を直観了解した智慧によってこそ、煩悩などを完全に断滅できるからだ。前にも触れたように、諸煩悩の大もとには我執があり、それを種子から断滅できるのは空性を直観的に覚った智慧しかない。この煩悩などの断滅も、後天的煩悩(見惑)・先天的煩悩(修惑)・煩悩の薫習(所知障)という三段階で行なう必要がある。

 以上のことを踏まえ、菩薩の本格的な修行を般若波羅蜜の面から整理すると、まず空性の推論理解と止観の止を確立する段階が「資糧道」、それに基づいて止観を徹底的に修習する段階が「加行道」、空性の直観了解を得て後天的煩悩を断じる段階が「見道」、さらに先天的煩悩と薫習を断じる段階が「修道」、それらを全て達成した結果で得られる仏陀の境地が「無学道」ということになる。これらを「五道」といい、日本では主に唯識の修道論として知られているが、チベットでは仏教全体に通じる重要な概念だ。

 『般若心経』は、経文の明らかな意味としては、空性と縁起を説いている。行間に隠れた意味としては、資糧道から無学道までの五道を説いている。理解力の優れた弟子たちのために説かれた真言の意味を解釈すると、最初のガテー(羯諦)が「資糧道を行け」、次のガテーが「加行道を行け」、パーラガテー(波羅羯諦)が「見道を行け」、パーラサムガテー(波羅僧羯諦)が「修道を行け」、そしてボーディスヴァーハー(菩提薩婆訶)が「無学道に住せよ」という意味になる。

 チベット仏教の僧院教育で中心課題となるのは、般若学と中観学である。前者は『大般若経』や『般若心経』の行間に隠れた意味、後者は明らかな意味を考察する学問と位置づけられる。チベット仏教の最大の特色となっている密教も、般若学や中観学の理解をベースにして修行しなければならない。

 チベット密教の中でも最高レベルに位置づけられる無上瑜伽タントラの場合、その最も中心となる行法は光明と幻身である。そしてこの両者は、まさに「色は空である。空性は色である」という『般若心経』の経文を密教レベルで実践することにほかならない。このような点から、チベット仏教における『般若心経』の重要性について、その本当の意義を知ることができる。

本稿は、『大法輪』誌平成22年8月号(pp.114-118)に、特集「これでわかる般若心経」の一環として掲載されたものです。大法輪閣編集部の御了承を得て、再掲載しました。

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