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このページは、数日おきに更新します。
ブログのように、新しい記事を上に加えてゆきます。
古い記事は、2~3箇月程度で、過去のブログのページへ移します。
ポタラ・カレッジの近況報告や行事に関することなど、最新の情報を書きますから、是非頻繁にチェックしてみてください。

8月25日(木) 秋の集中講座

ポタラ・カレッジ東京センターで、9月と10月に集中講座を実施します。

1.初秋の集中講座「ナーロー六法Ⅲ
宗祖ツォンカパ大師の『甚深道ナーロー六法教導次第・三信具足』をダライ・ラマ十四世法王が伝授した際の講伝録をもとに、チャンダリー、幻身、光明、ポワ、トンジュク、中有という六種の秘訣について考察します。「チャクラサンヴァラ」大灌頂受者には、特にお奨めの内容です。
テキストの表紙や目次の画像に、その部分の和訳を付けたものを、こちらで御覧になれます。今回は、いよいよ本題の「究竟次第」に入ります。2日間では完結しないため、これからも継続して実施する予定です。これまでⅠとⅡを受けていない方でも、受講資格を満たしていれば、今回から参加できます。
 講師:ゲシェー・ソナム・ギャルツェン
 日時:9月19日(月・祝)・22日(木・祝) 両日とも午後1時~5時
 受講資格:無上瑜伽タントラ大灌頂受法者限定

2.秋季集中講座「チベット語法話の聞き取り
ダライ・ラマ法王猊下の御法話の音声を教材とし、そのフレーズを文法的に解説して、ヒアリングの練習をします。仏教用語や法話での言い回しに慣れ、ラマの説法を聞き取れるようになることを目指します。チベット文字を読めるなど、チベット語の基礎知識があることを前提に授業を進めます。
4月に実施した春季集中講座「チベット語文法と法話の聞き取り」とは、内容が異なります。また、4月に受講していることを前提にした続きの内容でもないから、初めて参加なさっても大丈夫です。今回は、聞き取りを中心にし、文法的な説明も全てそれに関連づけて行ないます。
 講師:ガワン・ウースン
 日時:10月9日(日)・10日(月・祝) 両日とも午前11時~午後5時
 受講資格:チベット語の基礎知識がある方向け

お問合せ・お申込は、TEL.03-3251-4090、info@potala.jpまで。
こちらでも、お申し込みできます。


8月24日(水) 「サンガジャパン」特集チベット仏教

上座部仏教系の出版社サンガから、異色のチベット仏教特集号が、8月末に刊行されます。
『サンガ・ジャパン』Vol.24 「特集チベット仏教」
私自身も、「ゲルク派概説」、及び「ラムリムとガクリム」という二つの記事を執筆させていただきました。
それとは別に、ポタラ・カレッジへの取材記事もあり、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン師や私へのインタビューも掲載されています。
監修の永沢哲先生(京都文教大学 准教授)は、1980年代後半、ニンマ派の高僧ニチャン・リンポチェ師のもとでチベット仏教を一緒に学んだ仲間です。そんな御縁もあり、今回の企画にあたっては、ゲルク派関連の数多くのテーマを執筆するよう、お声をかけていただきました。けれども、自分の浅学非才と怠惰のせいで、あまり御期待に添うことはできず、上記の二項目のみ担当することになったわけです。
永沢さんならではの着眼点に基づく構成と、テーラヴァーダ仏教に詳しいスタッフによる編集が相俟って、数あるチベツト仏教概説書とは一味も二味も異なる、とてもユニークな内容になっているのではないかと思います。自分もまだ、関与した箇所以外は全然読んでいませんから、出来あがった本を手にするのが楽しみです。
詳しくは、出版社のサイトを御参照ください。
http://www.samgha-ec.com/SHOP/300620.html

8月15日(月) ゲシェー・ソナム師による許可灌頂成満

ゲシェー・ソナム・ギャルツェン師

ポタラ・カレッジ東京センターで、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン師による許可灌頂(ジェーナン)を、初めて実施しました。
8月11日(木・祝)に「ダクポ・スムディル(忿怒金剛手)」、13日(土)に「獅子吼観自在」、14日(日)に「白文殊」ということで、三部上首(リクスム・ゴンポ)の許可灌頂を順に授ける内容です。金剛手は諸仏の威力、観自在は諸仏の大悲、文殊は諸仏の智慧を、それぞれ体現する本尊とされています。
今回は初めてのことでもあり、「あまり大袈裟にしたくない」というゲシェー・ソナム師自身の希望により、ポタラ・カレッジ会員・受講者への文書による御案内のみとし、インターネットには一切情報を流しませんでした。昨日全て無事に成満したので、本人の承諾を得て、ここに事後報告させていただきます。
受者の方々もお感じになったと思いますが、ラマが直接日本語で説明しながら灌頂を授けるというのは、とても分かりやすく素晴らしいものでした。日本国内に於けるチベット仏教の灌頂の、新しいスタイルを確立できたと言えるのではないでしょうか。
今後は、インドの亡命チベット人社会から招聘する高僧による灌頂とともに、ゲシェー・ソナム師による日本語での灌頂も、積極的に実施してゆきたいと考えております。
参加者の皆様には、随喜とともに、改めて篤く御礼を申し上げます。また、会場の準備、トルマや諸供物の用意、配付資料や授与する御影の作成、当日の法儀の補佐など、会員のボランティアによる献身的な御奉仕のお蔭で、全ての行事を無事に終えることができました。心より感謝を捧げたいと思います。

7月22日(金) 勝義諦と世俗諦

6月23日の記事で四諦について触れたので、今度は少し二諦について書いてみましょう。といっても、きょうのところは、幾つかの問題提起をするぐらいです。
まず、二諦とは何かといえば、勝義諦と世俗諦です。ここでいう諦とは、一応「真実」という意味になります。
さて、一口に二諦といっても、インド仏教の四学派によって、その意味内容は大きく異なります。説一切有部の場合、世俗諦とは、物理的に破壊されたりすると「それ」だと認識できなくなるものを指します。例えば、瓶をハンマーで叩いて壊してしまえば「瓶」だと認識できないから、瓶は世俗諦ということになります。一方勝義諦とは、そのようではないものを指します。例えば、部分を有さない最小単位の物質などです。

しかし今回は、そうした各学派の二諦論を紹介するのではなく、中観派の見解に基づいて話を進めてみましょう。中観派の中でも、自立論証派と帰謬論証派とでは解釈が微妙に異なるのですが、大雑把にまとめていうと、二諦の意味は次のように設定されます。
世俗諦とは、日常の正しい智慧(言説の量)によって認識されるものです。
勝義諦とは、実体の追求に専念している正しい智慧(正理知の量)によって認識されるものです。
ここでいう実体とは、5月26日の記事で触れたように、「それをそれたらしめている本質的なものがそれ自体の側にある」と凡夫が日頃自然に思い込んでいる、その思い込みが向かっている先に措定されるものです。
例えば、いま目の前に瓶があるとして、その瓶の勝義諦は、「瓶の空性」ということになります。なぜなら、正理知の量によって瓶の実体を徹底的に追求しても、「これだ」と掴めるものは何も見いだせないからです。さてここで、「正理知の量は、実体の追求に専念する」という点を、いま一度よく想起してみてください。既に止観の止を成就して完璧な集中力を有する、そのような深い三昧に入りつつ、正理知の量が実体の追求にひたすら専念している・・・という状況を、ありありと想像してみてください。この正理知の量は、一体どのような世界を見ているでしょうか? 「ああ本当に何も無いのだ」という、虚空の無限の広がりを体験するような感覚になっているはずです(もちろんこのとき、瓶そのものは存在します。しかしそれは、瓶の実体ではないから、正理知の量は完全にスルーして知覚しません)。正理知の量が認識した「虚空の広がりの如く何も無い」という、そのありさまが、勝義諦の意味内容とされる空性にほかなりません。
瓶は物質的なもの、つまり色薀の範疇に属します。なので、いま瓶の勝義諦について説明してきたようなことは、『般若心経』の「色即是空(色は空である)」という経文に相当するといえるでしょう。

さて、そうした正理知の量の深い三昧から立ち上がり、日常の感覚、つまり言説の量で目の前を見たとき、瓶の存在が認識されるはずです。従って、瓶の世俗諦は「瓶」ということになります。
このように、正理知の量では「瓶の空性」としてしか認識されなかったものも、その三昧から日常の感覚へ戻り、言説の量で見ると「瓶」として認識されるわけです。このことは、『般若心経』の「空即是色(〔色の〕空性は色である)」という経文に相当するといえるでしょう。
こうした二諦論は、中観派の見解を正しく理解するうえで最も重要な鍵だと、私は強く思っています。勝義諦は「正理知の量によって得られるもの」、世俗諦は「言説の量によって得られるもの」という二諦の意味(厳密な定義は、論理学的な隙をなくすため、もう少し複雑な表現になります)を初めて学んだとき、私は本当に目から鱗が落ちる思いでした。二諦の枠組みをきちんと整理できなければ、様々なものごとが「有る」とか「無い」とか議論しても、まったく無意味な言葉の遊びになってしまいます。

ところで、二諦の中でも特に世俗諦については、「世俗」という言葉の感覚に引き摺られて誤解してしまわないよう、気をつける必要があります。「勝義諦と世俗諦」という対比は、決して「聖なるものと俗なるもの」の対比ではありません。たしかに「世俗」の語義解釈には、無明や世間と結びつけた説明もあります。しかしそれは、語源解釈として、世俗のそうした側面に着目した説明にすぎません。世俗諦に属するものごとだからといって、それが全て俗なるものだということには、決してなりません。
さきほど例に用いた「瓶」は、いかなる存在に置き換えることもできます。ならば、「瓶」を「仏陀」に置き換えてみましょう。そうすると、仏陀の勝義諦は「仏陀の空性」、仏陀の世俗諦は「仏陀」ということになります。この点からも、「世俗諦=俗なるもの」という解釈がいかに間違っているか、よく分かると思います。
そこで次に、「瓶」を「衆生」に置き換えてみましょう。そうすると、衆生の勝義諦は「衆生の空性」、衆生の世俗諦は「衆生」ということになります。この場合、世俗諦は大方「俗なるもの」でしょうけれど、「衆生が衆生として成立するのは、世俗諦に於てだ」という点に着目しなければなりません。「仏陀の空性」も「衆生の空性」も、虚空と虚空が一味である如く、区別はありません。なので、仏陀が仏陀として成立し、衆生が衆生として成立するのは、世俗諦に於てしかないということです。
ここで何を言いたいのかといえば、仏教に於ける最も大切な価値感、つまり帰依の対象である仏陀や、慈悲の対象である衆生など、それらは全て世俗諦として成立しているということです。「勝義諦こそが究極の真実だから、世俗諦を捨てて勝義諦を追求すべきだ」などという考え方は、あまりにも一面的すぎます。二諦の中でも世俗諦の重要性を強調する姿勢こそ、まさに宗祖ツォンカパ大師のお立場だといえるでしょう。それも、ただ単に世俗諦を大事にするというよりも、「色即是空、空即是色」と観じて、その「空即是色」たる世俗諦を本当に尊重することだと思います。

最後にもう一つ、密教の話をしてみましょう。無上瑜伽タントラの文脈では、勝義諦が光明、世俗諦が幻身ということになります。「ちょっと唐突な展開では?」と思う方も、いらっしゃるかもしれませんね。しかし、この無上瑜伽タントラの二諦の設定は、例えば説一切有部と中観派の二諦論が全く別物であるのとは大きく異なり、中観派の二諦論のうえに無上瑜伽タントラ独特の要素を付け加えたものです。
それゆえ、中観派の二諦論に於ける世俗諦の重要性を納得できないと、幻身の意味や重要性もなかなか腑に落ちないことになってしまいます。そうすると、幻身という視点から「グヒヤサマージャ(秘密集会)」聖者流を最重要視し、それに合わせて無上瑜伽タントラの各流儀を解釈するというツォンカパ大師の密教教学の要点も、全然見えてこないことになってしまいます。

7月19日(火) ザムリン・チサン

本日はチベット暦の5月15日、この世界の護法善神にお香を供養する「ザムリン・チサン」の日です。チベットの伝統では、屋外の大自然の中で香木などを焚き、お経を誦えます。
ポタラ・カレッジでも、毎年恒例となっていますが、埼玉県飯能市にある真言宗智山派清泰寺の裏山で、ザムリン・チサンを修法させていただきました。市街地を一望できる、眺めの良い場所です。
参加者の皆様、お疲れ様でした! チベットに関心のある地元の方々も御参加くださり、とてもよかったと思います。
清泰寺住職御夫妻の御厚意に、心より感謝いたします。

7月 8日(金) 夏季集中講座「現観荘厳論七十義」

ポタラ・カレッジ東京センター、夏季集中講座「現観荘厳論七十義の解説」のお知らせです。
弥勒菩薩が「般若経」の隠れた意味を修道論として説き明かした『現観荘厳論』は、チベット仏教の僧院教育で徹底的に学修される中心課題の一つです。この教えの膨大な内容を簡潔に整理した枠組みが「七十義」で、それらをさらにまとめると「八現観」になります。
『現観荘厳論』を詳細に学ぶには長年の努力が必要ですが、「七十義」によって要点を知るだけでも、実践修行の裏づけとして大変役にたつはずです。『現観荘厳論』のエッセンスを、二日間で集中して学べるチャンスです!
 講師:クンチョック・シタル(本会副会長・主任講師
 日時:8月6日(土)・7日(日)午前11時〜午後5時まで(途中1時間の昼休み
 参加資格:どなたでも受講できます。
お問合せ・お申込みは、TEL.03-3251-4090、info@potala.jpまで。

6月23日(木) 本覚思想と四聖諦

6月17日の続きというか、関連する話題です。
今回の話には、「今の自分が認識・体験している世界が全てではない。自分自身の心のレベルが変われば、認識・体験する世界も一変する」という前提が絶対必要です。この前提を受け入れると、仏教の宗教的な真価を存分に享受できます。そうでないと、仏教の教理や実践も、世間的な人生訓や道徳と大差ないものになってしまうでしょう。なのでこの前提は、仏教の修行者にとって、非常に大事な考え方です。これを確信できないと、密教の修行は全然成立しません。

さて、17日の記事では仏性(如来蔵)について触れましたが、もっと極端なことを言うならば、この話は本覚思想にゆきあたります。
本覚とは、私のような煩悩にまみれた凡夫も含め、衆生は悉く本来から仏陀である。私たちのこの世界そのものが、本当は仏国土である・・・という意味です。しかしこれは、非常に重大な誤解を招く言い方です。
一番最初に強調しておかなければいけないのは、そのような本覚ということは、仏陀の心のレベルから見た場合にのみ実際に成立する・・・という点です。
密教の曼荼羅も、本来の意味は、そうした「仏陀の智慧から御覧になった世界」です。こうした点については、「曼荼羅とは何か」や「密教と本覚思想」のページで説明してありますから、お目を通していただければ幸いです。

そこで今回は、それらのページとの重複をなるべく避け、少し具体的な話をしたいと思います。
「衆生は悉く仏陀である。この世界そのものが仏国土だ」というのが仏陀の智慧から御覧になった世界観ならば、本当はそれが一番正しいはずです。なぜなら、私が「自分は凡夫である。ここは汚れた苦しみの世界だ」と認識している心よりも、仏陀の智慧の方が遙かに正しいからです。ここまでは真実です。
しかし問題は、そうした真実に気づくことさえできれば、それで全て解決する・・・という考え方です。これは、完全に間違っています。気づくことができれば、多少の安心を得られるかもしれないけれど、それだけでは何ひとつ根本的に解決しません。
「衆生は悉く仏陀である。この世界そのものが仏国土である」というならば、例えばシリア内戦で無差別の殺戮を繰り返しているテロリストたちも仏陀だし、虐殺された死体が山積みされている廃墟も仏国土だということになります。「気づくことさえできれば・・」式の物言いをする人たちは、なすすべもない弱者としてそういう状況に身を置いたときのことを、ありありと想像してみるべきです。
しかし一方、前に述べたとおり、そうしたこの世の地獄みたいな状況であっても、仏陀の智慧から御覧になれば清浄な仏国土なのです。仏陀御自身にとっては、何の問題もない世界です。
だとすると、こういう疑問が湧いて来ませんか? 「人々がこんなに苦しんでいるのに、仏陀はそれを御存じないのだろうか? もし、御存じなのに清浄な仏国土として享受なさっているとしたら、なんて冷淡なのだろうか?」と・・。
仏陀は一切智だから、御存じないはずありません。では、御自身が清浄な仏国土として体験なさっているのに、一体どうやって衆生の苦しみを知るのかといえば、「衆生の煩悩の心の面では、苦しみとして体験せざるを得ない」という因果関係を全て完全にお見通しになっているのです。
仏陀には無限の慈悲がありますから、衆生の苦しみを冷淡に無視することなど決してあり得ません。そこで、衆生をお救いになるために巧みな方便を様々に巡らすわけですが、しかし究極的な救済は、真実の教えを説き明かして衆生を導く以外にありません。つまり、私たちが仏陀の教えどおり修行し、その結果で自分自身の心のレベルが向上してゆくとき、問題は初めて根本的な解決へ向かうということです。
そのようなわけで、私たちを導く教えの大枠を提示するため、お釈迦様は最初に四諦をお説きになったのです。「これは苦である。苦を完全に知るべきだ」という仏陀のお言葉の重みを、私たちはこうして再認識する必要があると思います。四諦については、「何のために空を覚るのか」というページに簡単な説明がありますから、併せて御参照ください。

6月17日(金) 発菩提心への確信

6月7日の記事の続きです。
私自身のような低いレベルの修行者が、少しばかり「作為的な菩提心」を修練できたとしても、それを正真正銘の「非作為的な菩提心」へ高めていくのは、決して容易なことではありません。しかし、修練を重ねてゆけば、いつか必ず本物の菩提心を発することができるはず。この点を強く確信することは、非常に大切である・・・という話でしたね。

さて、なぜそのように確信できるのかといえば、教理的には、仏性(如来蔵)が一番の根拠となります。仏性とは、未来に仏陀の境地を得ることができる可能性のことです。中観派の見解によれば、仏性の正体は、心の空性だといいます。だからこそ、あらゆる衆生に仏性が具わっていることになります。なぜなら、一切衆生の心は空だからです。『般若心経』にも、「受想行識、亦復如是(心の様々な働きや心そのものも、物質と同様に空である)」と説かれていますね。私の心が空ならば、「煩悩にまみれた心」という現在の在り方は、絶対的なものではありません。絶対的なものでなければ、修行によって自分の心を向上させ、諸々の煩悩やその悪影響を完全に断滅し、いつか完全無欠な仏陀の智慧を獲得することも可能なはずです。
仏陀の境地を実現するためには、六波羅蜜の修行を積む必要があり、その出発点は世俗菩提心ということになります。「自分には仏性が有るから、いつか必ず仏陀の境地を得られる」というならば、仏陀の境地を得るために必須である非作為的な世俗菩提心は、必ず発することができるわけです。これは当然の道理ですね。

そうは言っても、仏性ということだけなら、例えば小さな虫にさえ有ります。虫だって、一切衆生の中に入りますからね。菩提心を起こせる根拠を、そういうあまりにもスケールの巾広すぎる話にしか見出せないとなると、また少し心許なくなりませんか(笑)。
そこで次には、「仏性が活性化した状態」ということを考慮すべきです。これは、今の私たちが手中にしている「仏教を学び修行できる境遇」です。専門用語では、有暇具足といいます。有暇具足を得なければ、仏性は潜在状態で眠っているようなものです。
地獄・餓鬼・畜生の三悪趣の境遇だと、有暇具足を得られる可能性はほとんどありません。いま私たちが、人間として生まれ、大乗仏教の教えと出会い、それを受け入れて実践しようとしていることは、甚だ得難く貴重な有暇具足なのです。
「三悪趣の衆生が、いつか人間として生まれて、有暇具足を手中にすること」と、「有暇具足を得た修行者が、いつか仏陀の境地へ到達すること」の両者を比べるならば、前者の方が遙かに難しいといいます。いま既に、私たちは前者を実現しています。自分が既に実現できている前者より容易な後者の、それも一部の課程にすぎない発菩提心を、自分ができないことなどあり得ますか? できると思う方が、ずっと自然ですよね。

しかしまた、私自身の在り方を正直に直視するならば、いくら作為的な菩提心を修練しても、なかなか非作為的な菩提心を発することはできないという現実があります。でも、それで落胆してはいけません。最初はできないのが当たり前です。だからこそ、強い確信をもって修練を繰り返す必要があるのです。
私たちは、「いろいろと準備を重ね、本番で間違いなく成功させる」という発想に、学校や仕事などで慣らされ過ぎています。そして、もし本番でうまくゆかなければ、「失敗だった」と思って落胆したりしますよね。この発想は、日常生活ではある程度仕方がないでしょうけれど、仏教の修行の場面では絶対にダメです。修行のときは、こういうメンタリティを、綺麗サッパリ捨て去りましょう。
仏教の修行は、たとえ方法が正しくても、上手くゆかないことの連続です。でも、方法が正しければ、上手くゆかないことの反復自体が、いずれ成功をもたらします。「上手くゆかず失敗だったけれど、それで教訓を得られる」という意味ではありません。
分かりやすい例をあげてみましょう。無上瑜伽タントラの究竟次第に、金剛念誦という修行があります。微細な風を誘導し、チャクラの結び目を通すようにイメージします。でも実際には、チャクラの結び目は堅固だから、風を通すことはできません。でも、これは失敗ではありません。落胆してはダメです。何度も何度も繰り返しているうちに、いつか結び目が弛緩し、風が通るようになるのです。解説書では、「竹筒の節を木の棒で繰り返し突くと、そのうちに貫通するようなもの」という比喩を使って説明しています。こういう事例は、仏教の修行の中にたくさんあります。
作為的な菩提心の修練を繰り返し、いずれ非作為的な菩提心を発するというのも、これと同じ仕組みです。上手くゆかないのは、失敗ではありません。方法が間違っていなければ、上手くゆかないことの繰り返し自体が、いずれ本物の発菩提心をもたらします。だから、喜び勇んで修練を続けるべきなのです。
「そういう根気のいる修行は、今日のような堕落した時代だと難しいのではないか」という心配もあるかもしれませんが、それは杞憂にすぎません。7日の記事で言及した「ロジョン」という心の訓練には、様々な悪条件を修行の道へ転化させる秘訣が説かれています。また無上瑜伽タントラも、堕落した時代にこそ益々力を発揮する修行法です。チベット仏教には、そのような優れた力強い手段が豊富に揃っているので、私たちは余計な心配に惑わされることなく、自信をもって修行に精進すべきだと思います。精進とは、喜び勇んで善行に努力することです。だから、希望をもって楽しく修行しましょう!

6月15日(水) 夏季特別講習「文殊菩薩の成就法」

ポタラ・カレッジ東京センター、夏季特別講習「文殊菩薩の礼賛と成就法」のお知らせです。
5月のダライ・ラマ法王来日御法話で授けられた文殊菩薩の許可灌頂に合わせ、文殊菩薩の礼賛偈「カンロマ」を解説し、それを念誦して文殊菩薩を瞑想する成就法のやり方についても説明します(カンロマ」のチベット文、読み方、和訳はこちらです)。
 講師:クンチョック・シタル
 日時:7月18日(月・祝)午前11時~午後5時まで(途中1時間の昼休み
 参加資格:文殊菩薩の灌頂・許可灌頂を受けていれば一番望ましいですが、そうでなくても四部タントラいずれかの灌頂・許可灌頂を受けていれば受講できます。
お問合せ・お申込みは、TEL.03-3251-4090、info@potala.jpまで。

6月11日(土) ダライ・ラマ法王御誕生日法要

7月6日(水)は、ダライ・ラマ十四世法王テンジン・ギャツォ猊下81歳の御誕生日です。
ポタラ・カレッジでは、法王の御誕生日をお祝いして御長寿を祈願するため、当日の午後7時45分から9時15分頃まで東京センターで法要を厳修します。
この法要では、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン師を導師に、「観音菩薩のグルヨーガ」や「ダライ・ラマ法王の長寿祈願」などを全員で読誦します。
どなたでも御参加いただけますので、御都合がつけば是非いらっしゃってください(参加無料、予約不要)。
◎ 『チベット密教瞑想入門』または「観音菩薩グルヨーガ」プリントをお持ちの方は、御持参ください。
※ 当日の定期講習「チャクラサンヴァラ成就法」は、午後7時30分までの授業となります。

6月 7日(火) 菩提心の分類 

前回の記事の続きで、今日は菩提心の種類についてお話ししましょう。

まず、世俗菩提心と勝義菩提心。
世俗菩提心とは、「一切衆生を救済するために仏陀の境地を目指す」という心です。つまり、普通に「菩提心」と言った場合は、この世俗菩提心のことを指します。正真正銘の世俗菩提心を発したら、その修行者は凡夫の菩薩となります。換言すれば、大乗の資糧道へ入るということです。
勝義菩提心とは、そうした世俗菩提心をもとに修行して得たところの、空性を直観的に覚る智慧です。勝義菩提心を得てからは、聖者の菩薩となります。換言すれば、大乗の見道へ入るということです。声聞や縁覚の聖者にも、空性を直観的に覚る智慧はありますが、それは勝義菩提心とは言いません。菩薩が空性を概念的に理解する智慧は、勝義菩提心に準じるものと言えるでしょう。

次に、発願心と発趣心。これは、世俗菩提心の分類です。
発願心とは、「一切衆生を救済するために仏陀の境地を得よう」と誓願する志です。この発願心には、「一切衆生を救済しよう」という利他の側面と、「そのために自分が仏陀の境地を得よう」という自利の側面があります。究極的な目的は利他ですが、それを実現するためには自利が欠かせないという関係です。
発趣心とは、「仏陀の境地を得るために必要な修行を実践しよう」と行動を起こす心です。そのような菩薩の修行は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六波羅蜜に集約されます。発趣心を確立する第一歩は、菩薩戒を受持することだとされています。
発願心がなければ正しい目標が確立されないし、発趣心がなければその目標はいつまでも実現しません。

最後に、作為的菩提心と非作為的菩提心。これは、世俗菩提心を発する段階として、便宜的に設定された分類です。
非作為的な菩提心とは、正真正銘の世俗菩提心のことです。しかし普通だと、それをいきなり発するのは甚だ困難だから、先に作為的な菩提心を修練する必要があります。
作為的な菩提心とは、聞・思・修を通じて人為的に作り出した菩提心です。作為的な菩提心の修練は、まず菩提心についてよく学んで知り、深く考察して十分に納得し、「自分もそのような菩提心を発したい」という憧れの気持ちを起こすことから始まります。『入菩薩行論』などの教えを学ぶことは、そのための素晴らしい方法といえるでしょう。
それから、5月5日に紹介した「自他の平等と置き換え」や、或は「因果の七秘訣」などの方法に従って修習を繰り返し、瞑想の中で菩提心を作りあげます。自己愛着を利他心へ転換してゆく「ロジョン」という心の訓練の秘訣なども、このプロセスを助ける有力な手段となります。
それから、こうして作りあげた菩提心を、行住座臥に維持できるようにしてゆきます。しかしそれは、とても大変です。私のような低いレベルの修行者だと、瞑想の中で菩提心を確立したつもりでも、実生活の場では強烈な自己愛着が息を吹き返し、慈悲や菩提心などを木っ端微塵に打ち砕いてしまいます。けれど、ここで落胆してしまってはいけません。作為的な菩提心の修練を重ねてゆけば、どんなに困難であっても、少しづつ行住坐臥に維持できるようになり、やがて非作為的な本物の菩提心が輝き始めるはずです。
これを何度も試行錯誤する場面では、「自分には必ずできる」という強い信念が欠かせません。仏教の修行には様々な「信じること」が必要とされますが、それらの中でも、この場面に於ける信念ほど重要なものは他にないと思います。なぜなら、もしその信念がなければ、大乗の道の入口で退転を余儀なくされてしまうからです。
ただ、何の根拠もなく信念を持つことはできませんから、次回はそのように確信し得る理由や、それ強く維持してゆけるメンタリティについて触れてみたいと思います。

5月26日(木) 無我の意味と菩提心

5月5日の記事の続きです。
大乗仏教は、「個」を徹底的に大切にする・・・と言いましたね。そうすると、「個は無我のはずだ。“個を徹底的に大切にする” などと言うのは、無我を理解していないからではないのか?」という疑問が出てくるかもしれません。
ならば、無我という仏教用語の意味を、漢字のニュアンスに引き摺られずに、よく考えなければいけません。中観派の説く無我は、「色即是空」の空と同じ意味で、何らかものの実体(自性・我)が全く無いということです。その「何らかのもの」は、何でもよいのです。例えば、瓶とか柱とか・・。そしてもちろん、個人それぞれにも、実体は全く無いということになります。
では、この場合の実体(自性・我)とは、一体何でしょうか? それをきちんと確定せずに、いくら無我や空を語っても、意味不明の感情論にしかなりません。 
中観帰謬論証派の見解によると、例えばここに瓶があるとして、この瓶の実体とは、「この瓶をこの瓶たらしめている本質的なものが、この瓶自体の側にある」と私たちが日頃自然に思い込んでいる、その思い込みが指向している先に措定されるものです。しかし、そのようなものが本当にあるかどうか徹底的に分析・追求してゆくと、結局「これだ」とつかめるものは何ひとつ見出せません。そのような実体の「無さ」が、無我や空という意味です。
この瓶の実体を追求したら何も得られないけれど、そのように実体を追求しなければ、瓶は目の前に確かに存在しています。瓶が存在すれば、瓶の色彩や形状など、様々な属性も確かに存在します。
瓶の代わりに、ある人について考えても、全く同様です。その人の実体を追求したら何も得られないけれど、実体を追求しなければ、その人は確かに存在しています。その人が存在すれば、身体や心の在り方として、様々な個性も確かに存在します。
「それをそれたらしめている本質的なもの」がそれ自体の側に全然無いのに、なぜ属性や個性を伴って瓶や人が存在しているのでしょうか? それは、因果関係をはじめとし、他のものごとと相互に依存しあう形で存在しているのです。仏教用語としての縁起は、そうした在り方を指し示す言葉です。
前回の記事でも紹介したパンチェン・ラマ一世『上師供養儀軌』の中に、無我と縁起が矛盾なく両立することを説いた偈があります。
 འཁོར་འདས་རང་བཞིན་རྡུལ་ཙམ་མེད་པ་དང་།
 རྒྱུ་འབྲས་རྟེན་འབྲེལ་བསླུ་བ་མེད་པ་གཉིས།
 ཕན་ཚུན་འགལ་མེད་གྲོགས་སུ་ཆར་བ་ཡི།
 ཀླུ་སྒྲུབ་དགོངས་དོན་རྟོགས་པར་བྱིན་གྱིས་རློབས།།
 輪廻と涅槃〔の諸法〕に自性が微塵もないことと、
 因果と縁起の確実性の両者が、
 互いに矛盾なく携えて現われるという、
 ナーガールジュナの密意を了解するよう〔ラマよ私を〕加持し給え。
『甚深道たる上師供養儀軌』の該当箇所はpp.66-67

話を元に戻すなら、「個は無我」ということは、この偈の一行めに説かれています。「個を徹底的に大切にする」というのは、二行めの枠組みでのことです。その二つは矛盾なく両立するというのが、中観派の大祖師ナーガールジュナの教えにほかなりません。
仏教用語の無我という意味を情緒的に受け取り、自我の確立されていない状態や没個性の状態を仏教の目指すべき理想として掲げるような論調を見聞することもありますが、それは大きな誤解だと思います。自我が確立されていないのは精神的に未熟なだけだし、没個性を強いるのは野蛮な全体主義でしかありません。
菩提心は、千差万別の個性をもつ衆生一人ひとりに対する大慈悲と、「一切衆生救済の重荷をこの自分一人で背負って立とう」という殊勝な決意がなければ、発することはできません。皆で一緒に救われようとか、既に救済活動をしている仏と一体化するとか、そんな誤魔化しのきく甘い話ではありません。「一切衆生救済の重荷を自分一人で背負って立つ」という、これほど強烈な自我意識が、他に何かあるでしょうか? 

最初に世俗菩提心を発するにあたり、空性了解がどうしても必須だということはありません。なぜなら、前回紹介した「自他の平等と置き換え」やその他の修練を通じて自己愛着を克服できるため、そうした状態から発する菩提心そのものは、自己愛着に染まった悪い意味での自我意識(いわゆるエゴイズム)とはなり得ないからです。
しかし、世俗菩提心と空性了解の両者は、相互に助けあってレベルアップしてゆく性質があるから、いずれ両方が必要になることは言うまでもありません。

5月20日(金) 「サカダワ法要」日曜に厳修

ポタラ・カレッジ東京センターで5月22日(日)午後6時45分から実施予定の定例法要を、「サカダワ法要」として厳修します。
「サカダワ」とはチベット暦4月のことで、お釈迦様に有縁の月とされ、功徳を積むのに大変よい機会と考えられています。今年の場合、サカダワが閏月となっています。新暦の5月7日から6月5日までが正サカダワ、6月6日から7月4日までが続サカダワです。
サカダワの満月の日(チベット暦4月15日、今年の場合新暦5月21日)は、お釈迦様の誕生・成道・涅槃の御縁日とされています(誕生については、4月8日とする説もあります)。
ポタラ・カレッジでは、その翌日になりますが、上記のとおり5月22日(日)午後6時45分から8時15分頃まで、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン師が導師を勤めて「サカダワ法要」を厳修します。どなたでも御参加いただけます。御都合つけば、是非いらっしゃってください(事前の参加申し込み、予約等は必要ありません)。
また、御縁日の当日である21日(土)には、各自で「ティヤター・オーン・ムニ・ムニ・マハームナイェー・ソーハー」という釈尊の御真言をお誦えになるようお勧め致します。
◎ 『甚深道たる上師供養儀軌』(ポタラ・カレッジ叢書6)や『チベット仏教常用経軌集』(ポタラ・カレッジ叢書3)をお持ちの方は御持参ください。

5月11日(水) 文殊菩薩の礼賛偈

諸仏の智慧を体現する文殊菩薩の礼賛偈「カンロマ」のチベット文、読み方、和訳をアップしました。こちらです。
現在御来日中のダライ・ラマ法王猊下による文殊菩薩許可灌頂の際に配付される尊像の裏面に、「カンロマ」がチベット文で書かれていると思います。当初はこの拙訳をもとにした和訳も掲載される予定でしたが、五箇国語の訳を併記するスペースがないため、チベット語だけということになったそうです。
アップした内容は、2010年にポタラ・カレッジで大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師が文殊菩薩の許可灌頂を授けてくださった際に作った資料のままとなっています。今回配られるものとは、細部が若干異なっているかもしれませんが、大方は同じはずです。

5月 5日(木・祝) 自他の置き換えの教誡

シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』第八品に、「自他の平等と置き換え」という発菩提心の教誡が説かれています。分かりやすく紹介すると、「幸せを望み苦しみを避けようとする点で、自分と他者は全く同じである。自分は一人なのに対し、他者は無数に存在する。それゆえ、たった一人の自己の利害に固執し、無数の他者の苦楽を顧みない今の自分の考え方は、あまりにも不合理だといわざるを得ない。そうした心の在り方を180度転換し、無数の他者の利益を第一に考える利他心を育もう。そのような利他心をもとにして、“一切有情を利益するために、自分自身が仏陀の境地を目指す”という菩提心を発することができる」という教えです。
確かにそうなのですが、この言い方は、危ない誤解を生む恐れもあります。それは、「一人と無数」という数の比較を行なっている点です。これを「個と集団」という意味に理解してしまうと、全体主義的・集団主義的な思想の根拠として用いられる危険性があると思います。
いろいろな機会にこの教誡の話題が出るたび、その意図を全体主義的な傾向で捉えたうえで、仏教的な優しいオブラードにくるんで納得してしまう人も結構いるではないか・・・と、私は一抹の不安を感じています。

では一体、この教誡の真意は、どう理解したらよいしょうか?
今の私のような低いレベルの凡夫は、強烈な自己愛着のせいで、大半の言動が自己中心的になっています。とにかく自分の利害が一番大事であり、それに比べれば、他者の苦楽など取るに足らぬものです。ときとして、家族や親しい人を自分以上に大事にすることもあるでしょうけれど、それは「自分にとって」大切な人たちだからです。
このような自己愛着を断ち切れないため、私のような凡夫は、無限の過去から輪廻という苦しみの世界に迷い続けてきたのです。稀に善行をなすことがあっても、大方は自己愛着に起因する諸煩悩のせいで悪行を重ね、それによって多くの他者を苦しめ、巡り巡って自分自身も苦しんできたのです。
一方お釈迦様は、そんな私と正反対の在り方です。自己愛着を断ち切って利他心を育み、菩提心を発して布施を始めとする六波羅蜜の菩薩行を積み、遂には仏陀という理想の境地を実現したのです。それはまさに、自利と利他を円満した状態にほかなりません。
このようにして、今の私の在り方とお釈迦様の在り方の両方を比べれば、その過失と功徳の差異は歴然としています。ならばお釈迦様に見習い、今の私が自分一人へ注いでいるその強烈な愛着のエネルギーを、無数の他者を慈しむことに振り向けてみようではないか。今の私が他者の苦楽に無頓着でいられる冷淡さを、自己中心的な利害に無頓着でいられることに振り向けてみようではないか。そのようにできれば、お釈迦様のケースと同様、未来には自分と他者の双方に最善の結果がもたらされるはずだ・・・というふうに考えて利他心を訓練してゆくことが、「自他の置き換え」の意味です。
つまり、自己愛着に凝り固まった心と、それを断ち切って無数の他者を慈しむ心という、この両者をありありと想起して比べることがポイントなのです。「一人と無数」というロジックも、その比較を鮮明にクローズアップするための表現だと思います。

パンチェン・ラマ一世『上師供養儀軌』の中に、こうした点を明確に説いている偈があります。
 མདོར་ན་བྱིས་པ་རང་དོན་ཁོ་ན་དང་།
 ཐུབ་དབང་གཞན་དོན་འབའ་ཞིག་མཛད་པ་ཡི།
 སྐྱོན་དང་ཡོན་ཏན་དབྱེ་བ་རྟོགས་པའི་བློས།
 བདག་གཞན་མཉམ་བརྗེ་ནུས་པར་བྱིན་གྱིས་རློབས།།
 つまり愚かな凡夫が自利のみ〔をなしてきたこと〕と、
 〔釈迦〕牟尼が利他ばかりなさってきたことの、
 過失と功徳の差異を了解する智慧をもって、
 「自他の平等と置き換え」〔の修行〕ができるように〔ラマよ私を〕加持し給え。
『甚深道たる上師供養儀軌』の該当箇所はpp.55-56

さて、そのように利他心を育んで無数の他者を慈しむには、具体的にどうアプローチすればよいでしょうか?
無数の他者の全体概念たる「一切有情共同体」みたいな集団を想定し、そのために滅私奉公することではありません。一切有情といっても、それは各々が千差万別の個性をもった人や生き物の集まりです。だから、無数の他者を慈しむというならば、個々の有情一人ひとりを尊重しなければならないのです(当面の現実としては、自分が出会ったり知り得る範囲でということになりますが・・)。そのとき誰か一人でも、尊重して慈しむ対象から排除してしまうならば、たとえそれ以外の無数の有情全てを慈しんだとしても、菩提心は成立しません。なぜなら、たった一人が欠けても、もはや「一切有情」ではないからです。どうですか? 「一人と無数」の関係、前と逆のパターンで出て来ましたね(笑)。
このように大乗仏教とは、「個」を徹底的に大切にする教えなのです。集団のために個を犠牲にするような全体主義とは、まさに正反対だといえるでしょう。

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