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何のために空を覚るのか

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何のために空を覚るのか

 仏教の思想哲学では、空性や無我の意味がいろいろ説かれ、それを正しく理解・体得することの重要性が強調されています。しかし、そもそも原点に立ち戻って考えるなら、一体何のために空の意味を知る必要があるのでしょうか?

 「それが究極的な真理だから」という答えは、間違いではないでしょう。ですが、決して満足できるものではありません。もしも、仏教が単なる形而上の哲学ならば、その答えだけで十分かもしれません。しかし、仏教は宗教であり、実践の道です。空の意味を正しく理解することが、宗教的な理想を目指す実践の道に役だつのでなければ、それは努力するに値しません。例えば、ガンジス河の砂粒の数を知る如くに・・・。

 では、仏教一般に共通する宗教的な理想と実践の道は、どのような枠組みでしょうか? お釈迦様が初転法輪で説いた四諦(四つの聖なる真理)は、この点を明確に提示しています。お釈迦様は、「苦を完全に知るべきだ。集を完全に断じるべきだ。滅を完全に現証するべきだ。道を完全に修習するべきだ」とおっしゃっています。その意味するところを、簡単にまとめてみましょう。

【苦諦】 まず最初に、私たちが生死を繰り返している六道輪廻の本質を、苦だと知る必要があります。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣はもちろんのこと、人間・阿修羅・天の三善趣も苦しみの世界です。天には一見苦しみが無さそうですけれど、長い寿命が尽きて転落が差し迫ったときの苦悩は、地獄以上のものだといいます。

【集諦】 そこで次に、そうした苦の原因を追求しなければいけません。苦の直接の原因は、業(カルマ)だといいます。そして業は、諸煩悩によって惹き起こされます。だから、苦を完全に止滅させるためには、諸煩悩を種子から断つ必要があります。諸煩悩の大もとにあるのは無明(我執)ですから、これを種子から断じることが一番肝要です。

【滅諦】 あるレベルの苦の原因となる煩悩と無明を種子から断じたら、その苦はもはや生じません。それゆえ、諸々の煩悩と無明を完全に種子から断じたら、一切の苦が止滅します。そのような境地を解脱や涅槃といい、これを実現することこそ、仏教一般に共通するの宗教的な理想です。

【道諦】 そうした理想の境地を実現するための手段が、修行の道として設定されます。今までの流れから分かるように、道の主たる内容は、諸煩悩を種子から断じることです。そのためには、諸煩悩の大もとにある無明を種子から断じなければなりません。無明とは何かといえば、私たち輪廻の衆生に生まれつき具わっている実体視の習性です。それを種子から断じるためには、空性の現量了解(空を直観的に体得している智慧)が必要になります。なぜなら、無明の心が虚構している実体性の非存在こそが、空の意味だからです。

 以上のように四諦を概観することで、仏教一般に共通する宗教的な理想は解脱・涅槃であり、それを実現する手段として空性の体得が必要不可欠であるという、そうした点をよく認識することができるでしょう。

 この四諦の枠組みを大乗仏教のレベルで解釈すると、宗教的な理想は、大解脱や無住処涅槃、つまり一切衆生を救済し得る仏陀の境地になります。それを実現するために断じなければならないのは、諸煩悩と所知障です。所知障とは、中観帰謬論証派の見解によれば、煩悩の薫習だといいます。恰も汚物を完全に取り除いた後にも悪臭が残るように、煩悩の影響で後に残っている心の汚れです。これを断じるのも、空性の現量了解にほかなりません。

 さて、無明を種子から断じるためには、空性の了解が必要なわけですが、これは空を直観的に体得している智慧でなければなりません。それを、仏教哲学の用語では、「空性の現量了解(げんりょう りょうげ)」といいます。空という真理は、目で見たり手で触れたりできません。しかし、恰も目で見ているように、手で触れているように、意識によって直観的に空を体得しなければならないということです。そのようなレベルの智慧を獲得しない限り、諸煩悩を種子から断じることはできません。私のような凡夫は、まだ空性の現量了解を得ていないから、煩悩を抑制することはできても、根絶することは不可能なのです。

 では、空性の現量了解は、どのようにしたら獲得できるのでしょうか? 無念無想で座禅していて突如ひらめく・・・というようなものでは、決してありません。そうではなく、まず空性を推論的・概念的に理解することから始めるのです。そのためには、中観派の見解をよく学び、空の意味を徹底的に吟味する必要があります。自分の心の中で、「諸煩悩の大もとにある実体視の習性とは、どのような心の動きか? その心によって虚構された実体性とは何か? そのような実体性が本当に存在したら、どのような矛盾に陥るか?」といった点について検証を重ね、十分な納得を引き出すことが大切です。そのようにして得られた結論を、「聞と思による空性了解」といいます。

 しかしそれは、いわば頭の中の理解にすぎません。そこで次の段階として、止観の修習(瞑想)を通じ、これを体得してゆく必要があります。そのためにはまず、心の集中力を高める訓練(止の修習)が欠かせません。これを達成できたら、よく精神集中している三昧状態で、空性を観察します(観の修習)。このときは、既に十分納得している結論への流れに心を指向させるのであって、前述の段階のようにあれこれ散乱して考えるわけではありません。その次は、観を修習しながら、さらに心の集中力を高めます(止観不離の修習)。こうして止と観を分かち難く結びつける修行を徹底的に積み重ねてゆくことにより、いつか概念的な分別が全く介在しない状態で空を直観認識できるようになるといいます。これが、空性の現量了解なのです。

 顕教の大乗仏教では、空性の現量了解を達成するのに、一阿僧祇劫という途方もない期間を要するといいます。つまり、空性の現量了解を得るまでに、無数の生まれ変わりを繰り返さなければならないということです。しかし密教では、それを大巾に短縮できます。所作・行・瑜伽タントラの場合、本尊ヨーガを維持しつつ空性の止観を修習する無相ヨーガによって、顕教より速やかに空性の現量了解を得られるといいます。

 無上瑜伽タントラの究竟次第の場合、本尊ヨーガを維持しつつ空性を修習する点は同じですが、チャクラ、脉管、風、滴などを駆使する優れたヨーガの技法により、さらに大巾なスピードアップが可能です。これらのヨーガを通じて止観を修習することにより、倶生大楽で空性を了解するという、無上瑜伽タントラ独特の体験が得られます。そうした究竟次第の実践を積み重ねて達成した空性の現量了解を、無上瑜伽タントラの用語で「義の光明」といい、それによって諸煩悩を全て一気に断滅できると説かれています。

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 仏教思想を論議するとき、空や無我と関連づけて、諸存在が「有る」とか「無い」とか様々に語られます。そうした論議も、ここで述べてきた「空を覚る目的」から離れると、ほとんど無意味なものとなってしまいます。また時には、各当事者が同じ用語に異なった概念を結び付けているせいで、議論がかみ合っていないようにも見受けられます。

 聖典のある言葉が、どのような状態の心によって体験された世界を表現しているかも、慎重に考慮しなければいけません。例えば、『般若心経』の「無眼耳鼻舌身意・・・」という経文などは、空性の現量了解を得ている聖者の菩薩の三昧に於て体験される感覚です。それを考慮せずに、私たちの普通の感覚のレベルで「眼が無いとは、どういう意味か?」などと詮索しても、無意味なこじつけにしかならないでしょう。

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