ポタラ・カレッジ齋藤保高の個人サイトです。チベット仏教の伝統教学について、質の高い情報を提供します。

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8月29日(日) ヤマーンタカの究竟次第

ポタラ・カレッジで私の担当している「密教の地と道」のクラスも、昨日から授業再開です。
「グヒヤサマージャ」が本題ですけれど、夏休み明けからは、「ヤマーンタカ」究竟次第の行法を概観します。

密教の実践で、どの本尊を中心に修行するかということは、一人一人の御縁によって自然と決まってきます。
ゲルク派密教の究極は「グヒヤサマージャ」ですが、その実践理論をよく学んだうえで自分に有縁の本尊の修行に応用すれば、「グヒヤサマージャ」を修行するのと同様の効果が得られます。

この点を踏まえ、「ヤマーンタカ」の四瑜伽の行法に「グヒヤサマージャ」の五次第の実践理論をどう結びつけて応用するかを検証するのが、夏休み明けからの授業の狙いです。

8月26日(木) アティーシャ大師の御影

ラムリムの概要」のページの冒頭に、チベット仏教中興祖師アティーシャの御影を貼り付けました。
アティーシャ大師の『菩提道灯論』は、「ラムリム」の根本聖典です。
ゲルク派宗祖ツォンカパ大師は、その教えを集大成して、『ラムリム・チェンモ(菩提道次第広論)』をお説きになりました。『ラムリム・チェンモ』の冒頭では、アティーシャ大師の伝記が紹介され、その偉大な御事績を称えています。
ですから、私たちが「ラムリム」を学修するときは、アティーシャ大師に対するツォンカパ大師の深い御信心に思いを馳せることが大切だと思います。
この尊像は、ダラムサラの大本堂(ツクラクカン)に安置されているものです。

また、「ゲルク派の概要」のページの中ほどに、バイラクッペに再建されたセラ寺チェーパ学堂の供養法会の写真を載せました。
これは、1996年の撮影です。現在は、もっと大きな本堂が建立されています。

インドの亡命チベット人社会に再建されたお寺は、「場そのものの雰囲気」という点では、どうしてもチベット本土のお寺にかなわないですね。
もちろん、お寺で行なわれている学修活動は圧倒的に亡命先のほうが活発だし、内容面でも本流であることは間違いないのですが・・・。

8月23日(月) ポタラ・カレッジの夏休み明け

東京センターの定期講習、月曜から再開です。
まだ残暑が非常に厳しいので、体調に気をつけながら勉強と修行に精進しましょう!

この夏休み、私の自宅で変化したことは、テレビの撤去です。
と言っても、受信機を捨てたわけではありません。
密教の行法の研究で、VHSのビデオをPCの近くで見る必要があるため、液晶TVをアンテナケーブルからはずしたのです。テレビ番組を見ることは、できなくなりました。

そのような状態となって、はや数週間・・・。
生活に時間のムダがなく、スッキリした毎日を送れるようになりました。
成就法の広作法を実践する時間も、さほど苦労なく捻出できます。
テレビ無し生活のこの快適さ、やめられなくなりそう・・・。
ニュースなど必要な情報は、ネットで十分ですからね。
だけど、受信料がもったいないか・・・(笑)。

8月18日(水) 宗祖御廟とポタラ宮

ゲルク派の概要」のページの冒頭に、総本山ガンデン寺の宗祖霊廟の写真を貼り付けました。
尊像は、中央がツォンカパ大師、手前がギェルツァプ大師、奥がケートゥプ大師です。
まさにこの宗祖霊廟こそ、ゲルク派最大の聖地といえるでしょう。
晩年のツォンカパ大師は、ガンデン寺に居を定め、『中観密意解明』や『五次第明灯』など顕密の究極の教えをお説きになりました。
しかし今や、チベット本土のガンデン寺は、伽藍の大半が破壊され、総本山としての機能を果たし得なくなっています。
それでも、この場所だけが有する特別な神聖性は、他の何物をもっても代えられません。
私がこの聖地を参拝したのは、1993年の末。写真もそのとき撮ったものです。

もう一つ、「チベット仏教の歴史と特色」のページ冒頭に、ポタラ宮の写真を貼り付けました。
ポタラ宮は、ラサのマルポリという丘の上に建立されています。その隣には、チャクポリという丘があります。
ポタラ宮の中を拝観したとき、屋上からチャクポリを見つけ、「あそこからポタラ宮の写真を撮ったら最高だろうな!」と思いました。
それで別な日に、チャクポリへ登って撮ったのが、この一枚です。さほど大した高さではありませんが、酸素の薄い場所ですから、頭痛を我慢しながら異常にゆっくり登ったのを覚えています。

かつてこのポタラ宮の麓に、シュル・バルカンというペチャの印刷所がありました。
おとといの記事で触れた「ラサ・シュル版」というのは、そこの木版で刷られたペチャのことです。

で、こうした伝統的なスタイルのペチャが意外と便利な話でしたね。まあ、大したことではありません(笑)。
それは何かといえば、綴じられていないため、必要な部分だけ持ち出せる点です。
ほんの数ページのために、分厚いテキストを持ち歩かなければいけない・・・なんていう経験、皆さんもあるでしょう。そういう不合理なことが、ペチャだと避けられます。
チベット仏教の僧院では、ペチャを数枚手にして歩きながら暗誦しているお坊さんの姿を、よく見かけます。

また、儀軌を見ながら成就法を修行するときも、ペチャだと便利です。
金剛杵、鈴、ダマル、内供養などを並べた手前にペチャを置き、一枚づつめくって読んでいきます。
これが洋装本だと、かえって扱いにくいものです。

8月16日(月) トップページの御影を新しくしました

きのう、トップページにある宗祖ツォンカパ大師の御影を更新しました。
新しい写真は、大師御誕生の聖地に建立された大本山クンブム寺の尊像。1992年に参拝したとき撮影したものです。

あと、トップページの真ん中あたりに、ツォンカパ大師の密教の主著『真言道次第広論(ガクリム・チェンモ)』の冒頭部分を入れてみました。これは、ラサ・シュル版のペチャです。
チベット語の仏典を読む方ならよく御存じでしょうが、「ペチャ」というのは、チベットの伝統的な経本のスタイルです。横長の紙の表と裏に上下逆に印刷され、それを何枚も積み重ねて、一巻の書物になります。綴じていないから、バラバラになってしまったら大変! 収蔵時や持ち運ぶときは、「ペレー」という布に包みます。
扱いが面倒だと思うでしょう? でも、こういう伝統的なスタイルの経本は、慣れると洋装本より便利な場合があります。
文字の正確さや読みやすさは、両者に一長一短があるから別問題です。では、どういうメリットがあると思いますか? 答えは次回に(笑)。

8月13日(金) 北京版チベット大蔵経

昨日は、「影印北京版西蔵大蔵経」を閲覧するため、東京都中央図書館へ行ってきました。
この「影印北京版」は、大谷大学所蔵のカンギュル(仏説部)、テンギュル(論疏部)などを複写印刷したものです。近代的な印刷による「チベット大蔵経」の複製出版として、最も初期に出たものだと思います。
それだけに、仏教学の世界では誰でもその存在を知っているし、仏教系大学の図書館や研究機関には大抵所蔵されています。いわば、昔から一番ポピュラーな「チベット大蔵経」です。

ところが、この「影印北京版」を実際に参照しようとすると、結構大変なことになります。
私の場合、自分の身近なところには、「有りそうで無い」のです。
大学の図書館は、学外者だと利用手続がいろいろ面倒ですからね。

同じ「チベット大蔵経」でも、デルゲ版の複製ならば、ポタラ・カレッジに全部揃っているし、自宅のPCでも見られます。普通は、北京版よりもデルゲ版のほうが正確で読みやすいから、それで何ら問題ありません。
しかし今回は、どうしても北京版が必要だったため、「影印北京版」を所蔵している公共図書館で、距離的に近い都中央図書館へ足を運んだわけです。

大規模な公共図書館だから、国立国会図書館のように時間がかかると覚悟していたのですが、そんなことは全然ありませんでした。入口で入館証をもらい、備え付けの端末で検索して必要な巻を選び、入管証のバーコードを読み取って請求ボタンをクリックするだけ。10分ほどで、図書を手にすることができました。利用者が少なかったからかもしれませんが、コピーサービスも10分少々。
拍子抜けするほど簡単に、目的を達することができました。
20年以上昔、東洋文庫の「西蔵仏教宗義研究」ニンマ派の章を全部コピーするため、国会図書館に何日も通った頃が、懐かしく思い出されます。

「影印北京版」の閲覧は、大学図書館や研究機関の蔵書を手軽に利用できない場合、首都圏ならこの東京都中央図書館が一番よいかもしれません。私は今まで、参拝のついでに、奈良の東大寺図書館で閲覧させていただくケースが多かったですが・・。

8月11日(水) 「チベットの風」上映会のお知らせ

今週の土曜日(8月14日)の夕方、ポタラ・カレッジ第2会場で、映画「チベットの風」の上映会があります。
詳しくは、主催者「チベットの風~Wind from Tibetを見る会」のサイトを御覧ください。
第2会場はあまり広くないので、参加御希望の方は、上記サイトで早めにお申し込みなさったほうがよいと思います。

8月10日(火) 四大種の不調和

広大なチベット文化圏の東端(アムド地方東南部)と西端(ラダック)で大規模な水害が発生したと報じられています。
その他にも、世界各地で異常気象による災害が続発しています。
こうした現象は、様々な原因や条件が組み合わさって発生しているわけですが、要するに四大種(地・水・火・風)の不調和ということです。
個人レベルで四大種のバランスが崩れると、身体に変調をきたします。地球規模で四大種の調和が乱れると、異常気象や地震などを誘発すると考えられます。
いずれの場合も、まず人間の力で対処できることを行なうべきでしょう。しかし同時に、人知を超えた大きな力へ畏敬の念をいだき、仏や神に祈ることも大切だと思います。
私たち皆が認識しているように、日本は有数の地震国です。

自然災害の鎮静や被害軽減のためには、お釈迦様の真言(ティヤター・オーン・ムニムニ・マハームナイェー・ソーハー)やターラー菩薩の真言(オーン・ターレー・トゥッターレー・トゥレー・ソーハー)、さらに摩利支天の真言(オーン・マリツィエー・ソーハー)などをお誦えするとよいといいます。

また、地母神や四大種女尊などへ祈願する方法もあります。
団子や牛乳などを供物として捧げ、「地母神と四大種の女尊様、このお供物を召し上がり、どうか穏やかになさって、四大不調の害を鎮めてください」という気持ちで真心から祈ります。
これは世間神(粗い煩悩が残っている神様)への供養法ですから、清浄な供物をきちんと捧げないと、かえって災いする恐れもあります。

8月 7日(土) 春のムンゴットの猛暑

昨日はちょっと久しぶりに、内神田にあるベルギー料理店のランチに行ってきました。
ここは私のお気に入りで、ポタラ・カレッジ東京センターからノンビリ歩いて10分ぐらい。
いつもなら、ちょうどよい散歩になるのですが、昨日はもう暑くて大変でした。少しでもビルの陰になる道を選び、信号待ちも日陰を物色し、それでも着いたときには水をガブ飲み(笑)。
この暑さは、子供の頃に山や海へ行ったあの懐かしい「日本の夏」とは、全く別物ですね。

それで思い出すのは、十数年前に体験した「春のムンゴット」の灼熱地獄です。
ムンゴットといえば、今回私が行きそこねた大本山デプン寺のある場所。
7月31日の記事で書いたように、今の時期のムンゴットは、モンスーン・シーズンだから雨ばかりで、東京より確実に涼しいはず。
ところが3月から4月にかけては、「南インド」という場所に十分見合う猛暑が、凶暴さを発揮して襲いかかります。
1996年に初めてムンゴットを訪れた私は、灼熱地獄の手荒い歓迎を受けてしまい、それ以後春の訪問だけは避けるようにしています。
デプン寺には、チベット本土から最近亡命して来た僧侶もたくさんいるのですが、春のムンゴットの暴力的な暑さは、高地の気候に慣れた身には本当に辛いと思います。

8月 2日(月) 予定変更

おとといの記事に書いたばかりですが、デプン寺での学修の予定が、やむを得ない事情で急遽延期になりました。
たぶん、秋頃になるのではないかと思います。
そのようなわけで、7月31日の内容は取り消し。
今月も、ブログやサイト本体の更新を行ないます。

7月31日(土) 8月は南インドのデプン寺へ行きます

7月も今日でおしまい。毎日暑いですね。

さて8月は、南インドに再建されたゲルク派大本山デプン寺へ行ってきます。
これは、個人的な学修のためです。
それで、このブログの更新を1箇月間お休みします。

このサイトのシステムは、ネットに接続さえすれば更新できるはずなので、現地からの報告も技術的には可能かもしれません。
しかし今回は、日常と一切離れて修行に専念したいので、ネットの世界ともしばしお別れです。
8月末に帰国する予定なので、9月の初めから、またブログを再開します。

今まで何度か8月にデプン寺へ行っていますが、この時期はモンスーンの影響で雨ばかり。
異常に湿度が高いです。でも、暑くはありません。今の東京より、だいぶ涼しいと思います。
4年前に行ったときは、連日の雨であちこちに沼地ができ、宵闇の迫る頃にホタルが美しく舞っていました。
そんな天気も、8月の末頃になると、少しづつ晴れ間が多くなってきます。

では、9月にまたお目にかかりましょう。
デプン寺の様子など、いろいろレポートできると思います。
それまで、この「ゲルク派宗学研究室」のこと、忘れないでくださいね(笑)。

7月29日(木) 夏季集中講座

ポタラ・カレッジの公式サイトに、夏季集中講座の案内をはじめ、秋にかけての新しい情報を掲載しています。

8月12日(木)・13日(金)は、ガワン・ウースン師の担当で「アティーシャ大師の菩提道灯論」。教理・実践の枠組みとなる「ラムリム」の根本聖典を学びます。日頃「ラムリム」を勉強する機会の少ない方には、特にお奨め!

14日(土)・15日(日)は、ゲシェー・ソナム師の担当で「チッタマニ・ターラー 二次第解説 Ⅱ」。今回は、究竟次第の教えが中心となります(灌頂受法者のみ)。

21日(土)・22日(日)は、クンチョック・シタル師の担当で「中論の解説」です。法王猊下の最新刊『ダライ・ラマの中論講義』(マリア・リンチェン訳、大蔵出版)をテキストにして、ナーガールジュナ「根本中論頌」の要点を分かりやすく説明します。

今からでも、参加申し込み可能です。
お問い合わせ、お申し込みは、TEL./FAX.03-3251-4090、またはinfo@potala.jpまで。

7月24日(土) 「ガクリム」のコース、秋からやります!

昨日、ポタラ・カレッジの新しい行事案内を、会員の方へ郵送しました。
その中に、東京センターの定期講習で、秋からスタートする新コースの予告が出ています。

私の担当では、「真言道次第広論 無上瑜伽二次第解説」があります。
ツォンカパ大師の密教の主著『ガクリム・チェンモ』のうち、無上瑜伽タントラの生起次第と究竟次第を詳しく説き明かす第十一品以降をテーマとし、そこに引用されているインド後期密教の聖典の数々にもスポットを当てます。
宗祖のお言葉を吟味しつつ、その教えに導かれながら、無上瑜伽タントラの奥深い世界へ入ってゆく・・。そんなコースにしたいと思います。
ゲルク派密教の核心部分を、徹底的に学びましょう!
10月下旬開講、毎週土曜午後1時30分~3時、第2会場。
無上瑜伽タントラの大灌頂を受けている方が対象です。

7月20日(火) 「ロリク」の講演

梅雨明けで、いよいよ夏本番ですね。
東京も真夏の青空で、酷暑ながらも、先週までよりは快適です。

昨日は、ポタラ・カレッジ東京センターで、夏の特別講演「仏教心理学 ロリク入門」がありました(ガワン先生担当)。
比較的地味なテーマですが、かなり大勢の受講者が集まってくださいました。
こういう内容にも御関心をお持ちの方が多いのは、ポタラ・カレッジの会員・受講者の本当に素晴らしい点だと思います。本格的に仏教を学んで実践するために、とてもよいことです。

「ロリク」の話題、このサイトでは、「チベット仏教の雑学」の第2回後半と第3回で、ちょっとだけ触れています。

7月15日(木) 初転法輪御縁日

本日は、チベット暦の6月4日。お釈迦様が最初の説法をなさった御縁日です。
ポタラ・カレッジ東京センターでは、夜の7時45分から法要を厳修します。どなたでも自由に参加できますので、是非いらっしゃってください。

7月13日(火) 蟻の瓶と象の瓶

このところずっと、ブログに仏教の内容を書いてお茶を濁して(?)きましたが、久しぶりにサイト本体の新着コンテンツを紹介します!

昨日、「教理の考察」のカテゴリーに、蟻の瓶と象の瓶というページをアップしました。
これは、「誰も知らない火事」の続編と位置づけらる内容です。
しかし、このページを読んでから「誰も知らない火事」を見直すと、分かりやすいかもしれません。

中観プラサーンギカが世俗の自相まで否定してしまうのは、あまりにも行き過ぎで、ニヒリズムに陥っているのではないか?
世俗の次元で自相が無ければ、私たちは一体どうやって物事を識別できるのか?
「分別による仮説のみ」というなら、科学によって客観的に証明される事実の存在を、どう説明できるのか?
教えの中身を真剣に考えるなら、そういう疑問が続出しても当然だと思います。

この「蟻の瓶と象の瓶」のページでは、私が以前担当した「般若心経」コースでの質疑を参考に、そうした疑問を解決する鍵を模索してみました。

7月 9日(金) 『大法輪』 般若心経特集

今月発売の『大法輪』誌8月号は、「これでわかる般若心経」という特集です。
私も、チベット仏教と般若心経というテーマで、拙文を載せていただいております(pp.114-118)。
御覧になる機会があったら、是非御一読ください!
詳しくは、出版元大法輪閣のサイトで。

7月 7日(水) ブッダと宇宙

今宵は七夕。
でも東京は、天気悪そうですね。毎度のことですが・・。
やはり七夕は、旧暦でやったほうがよいのでは? そうすれば、もっと星空を楽しめるはず。
チベット人社会では、例えば現法王猊下の御誕生日は新暦で祝い、サカダワなどの伝統行事はチベット暦で行なう・・・というふうに、暦を使い分けています。

さて、おとといの記事の続きです。
仏陀が全宇宙のあらゆる存在を直観了解なさるとき、仏陀だけに可能な究極の認識方式 (二諦同時の現量了解) の特性により、認識の主体と対象は一体のものになります。
それゆえ、仏陀の法身 (仏智とその法性) は、全宇宙の森羅万象に遍満しているのです。
仏陀御自身の側からすれば、「宇宙=曼荼羅の全体が私である」という感覚になります。

大日如来や持金剛仏などを「全宇宙そのもの」というのは、そのような意味からです。
決して、「初めに絶対者ありき」ではありません。
お釈迦様や昔の大成就者たちが仏陀の境地を得て「宇宙=曼荼羅の全体が私である」という感覚になった、その在り方自体が大日如来や持金剛仏なのです。

そして私たち密教の実践者も、未来に同様の在り方を実現できるよう目指して、修行に精進しなければいけません。
本尊ヨーガの中で修習義の曼荼羅を観想するのも、そのために意識を習熟させる訓練と位置づけられます。
だから瑜伽行者は、曼荼羅の中心の座からの見え方をイメージするとともに、「そこから見えている全世界も、また自分自身にほかならない」という感覚を修練する必要があります。

七夕の日、仏様と宇宙の関わりに思いを馳せたところで、砂曼荼羅にかこつけた今回の話題は、一旦終わりにしましょう。

7月 5日(月) ダライ・ラマ法王御誕生日

明日は7月6日、ダライ・ラマ法王猊下のお誕生日です。
ポタラ・カレッジ東京センターでは、当日(7月6日火曜)のよる7時45分から、「ダライ・ラマ14世法王猊下後誕生日慶祝・御長寿祈願」の法要を実施します。
どなたでも、自由に参加できますので、是非いらっしゃってください(参加無料・予約不要)。

さて、一昨日まで曼荼羅の話を、実践者の立場から書きましたが、いかがでしたか?
様々な機会に曼荼羅の説明を聞いたり読んだりしてきた方は、もしかすると次のように感じるかもしれません。
「曼荼羅は全宇宙の象徴するもの。この一番大事なポイントが欠けているのでは?」。

確かに、そうです。しかし私は、敢えて今まで「宇宙」の話をしませんでした。
なぜかというと、初めに全宇宙を象徴する絶対者を設定し、それと自己との合一を目指してゆくような考え方では、密教の正しい実践にならないからです。

では、曼荼羅と宇宙の関係はどうなのかといえば、こういうことです。
6月27日の記事で書いたように、本来の曼荼羅(智の曼荼羅)は、本尊=仏陀の智慧の面から御覧になった世界です。
仏陀は一切智ですから、全宇宙のあらゆる存在(一切法)を直観的に了解なさっています。
なので、「仏陀の智慧の面から御覧になった世界」であるならば、それは必然的に全宇宙となるのです。
つまり、「初めに全宇宙=絶対者ありき」ではなく、「誰でも仏陀の境地を得れば、全宇宙を直観了解することになる」という考え方です。この両者は、似ているようで、大きな違いがあります。

修習義の曼荼羅は、瑜伽行者が自己を本尊として立ち上げる我生起のプロセスで、智の曼荼羅に近似させて観想するものです。
自分自身が本尊であり、曼荼羅の中央の座から自分が見ている世界は、全宇宙そのものである・・・というふうに思念を重ね、本尊の明確な顕現と慢を修習してゆくのです。
(「本尊の明確な顕現と慢」については、5月6日から12日にかけてのブログ記事で触れています。)

7月 3日(土) 大日如来の砂曼荼羅

昨日、タシールンポ寺の僧侶たちによる大日如来曼荼羅の作壇を拝観してきました(詳しくは、主催者チベットハウスのサイトを御覧ください)。
これは、行タントラ『大日経』に基づく曼荼羅で、チベット密教の伝統では、かなり珍しいものです。
無上瑜伽タントラとは方角が逆で、手前が西、奥が東になります。
配色は、西が緑、北が黒(実際には、少し青っぽく見える)、東が赤、南が黄、中央が白です。
(下の写真は、奥の角、東南方向から撮っています。)

大日現等覚曼荼羅


では、1日の記事の続き。
立体曼荼羅より所描曼荼羅の方が優れているのは、修行者が曼荼羅のどの位置にでも飛び込んでゆき(もちろん、心の中でですよ・・笑)、その位置から見える世界をイメージできる点です。

密教の本格的な修行を、本尊ヨーガlha yi rnal 'byorといいます。その中でも中心となる行法を、我生起bdag bskyedといいます。これは、行者が自分自身を曼荼羅の主尊として立ち上げる瞑想です。
つまり密教の瞑想では、曼荼羅の中央の座からの見え方をイメージすることが、非常に大切なのです。

立体曼荼羅を見ていると、どうしても外からの視点になってしまいます。
それに対し、所描曼荼羅は展開図のようなものだから、慣れれば中央の座からの視点を簡単にイメージできます。

もちろんこれは、その本尊の灌頂を受けた密教行者が我生起を実践する場合の話です。
一般論として、曼荼羅を外からの視点で拝むのがいけないというわけではありません。

7月 1日(木) アクセス数1万件

昨日、本サイトのトップページへのアクセス数が、計数上で1万件になりました。
でも、このシステムのアクセスカウンターは、多少サバを読む傾向があるみたいです(笑)。
なので、実数はまだ1万件に達していないかもしれませんが、トップページを経由しないアクセスもあるでしょうから、プラマイでチャラということにしましょう(ちょっと強引かな・・笑)。
いずれにせよ、多くの皆様に御覧にいただき、また熱心なリピーターになってくださった方もいらっしゃるので、本当に有難いことです。
初心を忘れずに、私の自己満足ではなく、閲覧してくださる方々の役にたつサイトとなるよう、心がけてゆきたいと思います。

さて、曼荼羅の続きです。
前回、修習義の曼荼羅は立体的な世界だという話をしました。
チベット密教の伝統には、それを模型のように表現した立体曼荼羅blos bslang dkyil 'khorというものがあります。
例えば、ラサのポタラ宮にも「カーラチャクラ」などの立体曼荼羅が安置されているし、日本で以前に実施されたチベット密教の展覧会で公開されたこともあるので、拝観なさった方も多いと思います。
こうした立体曼荼羅は、初心の行者が修習義をイメージするとき、確かに便利です。

ならば、「立体曼荼羅を使えば、砂曼荼羅から修習義をイメージするような面倒なプロセスは必要ないのでは?」という疑問が、当然湧いてきますよね。
ところが、そうでもないのです。
瑜伽行者は修習義の曼荼羅を、仏陀自身が御覧になっている完全に清浄な世界(智の曼荼羅)に、限りなく近似させて観想しなければいけません。
つまり、この世の物質的な限界を遥かに超越した素晴らしい世界を、心の中に立ち上げる必要があるのです
いかに金銀財宝を惜しみなく使って立体曼荼羅を建立しても、それは到底、観想すべき修習義の素晴らしさには及びません。
砂曼荼羅など平面的・抽象的な所描を参照して、立体的・具体的な修習義を観想するプロセスは、瑜伽行者がこの世の物質的限界を超えた世界を構築するために、イメージを純化させつつ膨らませてゆくちょうどよい機会を与えてくれるのです。

それとともに、もう一つ、立体曼荼羅より所描曼荼羅の方が優れている点があります。
これこそ、実践者ならではの視点なのですが、長くなってしまうので、次回にしましょう。

6月29日(火) 瞑想の中の曼荼羅は立体的な世界

おとといの記事で紹介した修習義bsgom donという用語は、一般に馴染みのない言葉だけれど、要するに私たち密教の実践者が心の中で観想すべき曼荼羅の在り方です。
普通に考えると、「砂曼荼羅の図形を、そのまま心でイメージすることかな・・」と思うかもしれませんが、そうではありません。

修習義の曼荼羅は、大別すると、所依と能依の曼荼羅rten dang brten pa'i dkyil 'khorになります。
前者は諸尊の住する環境世界、後者はそこに住する諸尊そのものです。

所依曼荼羅の修習では、結界を巡らした中に地水火風の輪を重ね、その上に雑色蓮華や雑色金剛などを生起します。
それから、雑色金剛の中心部に四角い楼閣を生起し、その細部を観察します。

能依曼荼羅の修習では、楼閣内陣の中央や四方などの座に主尊と眷属諸尊を生起し、それらの行相を詳細に観察します。
どの位置にどのような諸尊を安置するかは、それぞれのタントラや流儀によって異なります。

以上から分かるように、修習義の曼荼羅は立体的な世界です。
砂曼荼羅など所描bri chaの曼荼羅は、これを平面で表現したものです。
だから、「砂曼荼羅のこの部分が楼閣の壁で、この部分が門・・」といった対応関係を熟知すれば、所描を参照して修習義をイメージできるようになります。

6月27日(日) 曼荼羅の本質

先日ダライ・ラマ法王が御訪問なさった善光寺では、タシールンポ寺の僧侶たちの手で、阿弥陀仏の砂曼荼羅が建立されましたね。これは破壇せずに保存するようなので、今後も拝観の機会がありそうです。
また、同じ僧侶たちが東京で大日如来の曼荼羅を建立し、その作壇過程を今週火曜から来週日曜まで拝観できます(詳しくは、主催者チベットハウスのサイトで確認してください)。

「曼荼羅」の意味は非常に奥深いものですが、最も本質的な要素を一言でいえば、本尊=仏陀の智慧の面から御覧になった世界です。これが本来の曼荼羅であり、「智の曼荼羅」といいます。
具体的にどのような世界かは、仏陀御自身が密教タントラの中でお説きになっています。

そうしたタントラの所説をもとにして、密教行者は、本尊ヨーガの中で曼荼羅を瞑想します。これを「修習義の曼荼羅」といいます。
私たち密教の実践者にとっては、修習義の曼荼羅を正しく理解して観想することが、一番重要なのです。

そのような曼荼羅を、実際に目に見える図画として表現したのが、「所描の曼荼羅」です。
砂曼荼羅は、その最も正式な表現方法です。

曼荼羅について正しく知るには、「智-修習義-所描」という関係性を理解することが大事です。学芸員的な解説はいくらでも出来ますが、一番本質的な要素はこの点に尽きると思います。

話は変わりますが、本日は第4日曜なので、ポタラ・カレッジ東京センターで午後6時45分から定例法要があります。

6月25日(金) コンパッション

18日の記事でお知らせした小冊子『コンパッション-悲-』vol.3 ダライ・ラマ法王特集(長野県のチベット支援団体「チベットの風」発行)の頒布を、ポタラ・カレッジ東京センターで始めました。1冊500円です。
小冊子といっても、A5版で80ページ、美しいデザインのカラーページもあり、これで500円はお買い得ですよ(笑)。

中身は、まず巻頭に、ダライ・ラマ法王御自身がお寄せくださったメッセージがあります。
続いて、法王の通訳を長年務められたゲシェー・ラクドル師(ダラムサラ・チベット文献図書館館長)の特別寄稿「ダライ・ラマ法王猊下との年月」。これは、法王側近の中でも仏教と文化に精通した学僧の目から見て、法王の様々な御活動を紹介した内容です。ラクドル師は、ダラムサラ仏教論理大学の出身。ポタラ・カレッジのゲシェー・ソナム師やクンチョック師の同級生です。
そして、この小冊子の一番中心となるコンテンツが、田崎國彦先生(チベット問題研究者)による「ダライ・ラマ十四世の半生」。簡潔な説明ながら、ダライ・ラマ法王とチベット問題についての要点が、ほとんど網羅されています。
さらに、宮坂宥洪先生(智山伝法院副院長・照光寺住職)、渡辺一枝先生(作家)、平岡宏一先生(清風学園専務理事)など、それぞれの分野でチベットに造詣の深い先生方が執筆されています。
私も恥かしながら、前に紹介したとおり、「ダライ・ラマ法王の教えから学ぶこと」という拙文を載せていただいております。

法王関係の記事以外に、編集部による「仏都長野」のガイドなどもあり、楽しめる一冊です。
夏休み、『コンパッション』を片手に信濃路を旅してみるのはいかがですか?

6月21日(月) 静岡センター講話会

昨夜は、断続的にサーバーの障害があったみたいで、本サイトへの接続が長時間にわたり困難でした。
せっかく法王猊下が御来日中の時期なのに、イヤですね(笑)。
私もブログの更新ができないし、アクセスしてくださった方々にも御不便をかけてしまったと思います。

さて今夜は、ポタラ・カレッジ静岡センターの講話会があります。
担当は、クンチョック先生です。

今週土曜(6月26日)は、ダライ・ラマ法王の横浜での御法話・講演があるため、当日のポタラ・カレッジ定期講習は休講となります。

6月18日(金) ダライ・ラマ法王来日

本日は、ダライ・ラマ法王が日本へ御到着される日ですね。
最近は法王の御来日が毎年のように実現し、とても素晴らしいと思います。

チベット仏教との御縁」のページにも書きましたが、私がダライ・ラマ法王日本代表部で仕事をしていた1990年代中頃には、「法王の来日など夢のまた夢」という雰囲気でした。まさに隔世の感があります。
それだけに、ようやく実現した95年の御来日の感動は、ひとしおでした。もっともこのときは、法王が来日される直前に忌まわしい凶悪事件があり、その関連で余計な面倒が多かったように記憶しています。
いろいろな意味であの頃は、大きな転機だったような気がします。

ところで、今回の御来日の目玉は長野御訪問だと思いますが、地元長野県のチベット支援団体「チベットの風」では、これに合わせて小冊子『コンパッション-悲-』vol.3 ダライ・ラマ法王特集を発行します。
私も「ダライ・ラマ法王の教えから学ぶこと」という拙文を寄稿しています。
20日(日)の法王御講演会場(長野ビッグハット)で販売開始予定とのことですから、現地で見かけたら是非お読みになったください!!
詳しくは、こちらを。

6月17日(木) 止観と微細瑜伽

6月6日から15日にかけて、精神集中の方法について書いてきましたが、これらは止観の瞑想のうち止のカテゴリーに属する初歩的な実践、或はその前段階に関する話です。
より本格的な止の修行については、ツォンカパ大師の『ラムリム・チェンモ(菩提道次第広論)』止住品などで理論を勉強できます。

それを学んでから、そのとおり実践してもよいのですが、密教の灌頂を受けているなら、本尊瑜伽の中で止観を修行したほうが遥かに効率的です。
特に無上瑜伽タントラの場合、微細瑜伽と脉管の観想を併用することで、素晴らしく効果的な止観の修行が可能になります。
これを本格的に実践できるのは、生起次第の第三段階に入ってからです。しかし、慣れるための実践を通じて、ある程度の集中力を得ることは、第一段階(初心行者)から可能です。
無上瑜伽タントラの灌頂を受法し、「六座グルヨーガ」などをきちんと行じつつ、さらに生起次第を正しく学修している修行者ならば、成就法の中で微細瑜伽を実践する資格があります。
なお、無上瑜伽タントラの微細瑜伽であっても、止観の理論面に関しては、「ラムリム」などに説かれている内容が通用します。

6月15日(火) 顕現を安定的に維持する

10日や12日に書いたようなやり方で、仏様のお姿を心に顕現させられたら、次のステップとして、それを安定的に維持する練習をします。
その件については、6日の記事で簡単に触れましたが、顕現を一定に保つように注意すべきです。

例えば、お釈迦様の姿を眼前に観想する場合。
1.5~2メートルぐらい前方で、自分の額の高さあたりに、50センチぐらいの大きさで、一面二臂のお釈迦様がいらっしゃいます。お体は金色に輝き、右手は触地印、左手は定印で鉢を持ち、結跏趺坐で座り、比丘の法衣をまとっている・・。

これは、あくまで一例です。観想する位置や大きさや行相など、様々な方法が説かれています。
それらの中から、実践しやすいものを選べばよいでしょう。いろいろ試してみることとも、最初の時点では必要かもしれません。
しかしいずれ、自分の採用する方法を一つに決定し、以後は必ずそのとおりに観想すべきです。「最初は大きく、だんだん小さく」とか、「今日は眼前で、明日は頭頂で」などというようなやり方では、集中力の訓練になりません。

意識を継続的に集中するためのポイントは、仏様のお体が光り輝いているように観想することです。
お体の質感が光そのものなのですが、それでいて安定感・重量感のあるようにイメージします。

6月12日(土) 眼前に御座しますように

前の2回の記事で、仏像や仏画をよく見てから、仏様のお姿を意識で観想する・・・ということを書きました。
そこで気をつけるべきなのは、観想するときに、仏像や仏画という物質そのものを思い起こすわけではないという点です。
そうではなく、まるで眼前に本物の仏様がいらっしゃるかのように、ありありと観想することを心がけます。

例えば、いま自分が単身赴任や長期留学で一人暮らしをしているとしましょう。
そのとき、家族の写真を眺めてから、まるで目の前に家族本人が居るように思い起こすのは、それほど難しいことでないと思います。
仏様の姿を観想するというのも、基本的にこれと同様です。

もちろん、家族は長年一緒に暮らしていたけれど、仏様とは直接会ったこともない・・・という違いはあります。
そう感じたら、私たちの常識を超えた仏陀の在り方を考えてみましょう。
これだけ御縁があるのですから、私たちはいつかどこかで、必ず仏様と出会っているはずです。
密教の灌頂を受けているなら、まさに根本ラマこそが、自分の出会った仏様にほかなりません。この点は、3月29日の記事にも書きました。
それのみならず、実は今この瞬間に、瞑想しようとしている眼前の空間にも、仏様は確かにいらっしゃいます。
ただ、自分の心が煩悩で曇っているから、それを直観できないだけです。
この点は、仏陀の法身が全宇宙に遍満しているという点から、理論的に信解できます。

そのように工夫して考えを巡らし、親しみの気持ちと信心を増大させてゆけば、少しづつ仏様の姿をありありと観想できるようになります。

6月10日(木) 仏様に慣れ親しむ

8日の続きです。

そんなわけで、まずは仏様のお姿を心に顕現させることが先決です。
明確な顕現を得るには、参考として仏像や仏画をいつも見て、その姿を繰り返し反復して思い起こす練習をします。
それも、強い気持ちを伴って思い起こせれば一番です。

強烈な感情の代表例といえば、激しい欲望や怒りなどです。
実際問題、こうした強烈な感情を伴って経験したことは、心の中で非常にハッキリと思い出せませんか? クリアな映像を伴って・・。

ただ、欲望や怒りは煩悩ですから、そのような感情で仏様の姿を見ることはいけません。
その代わり、こうした悪い感情に匹敵するぐらい強力な憧れや信心を起こして仏様を見ることができれば、同様の効果が期待できるわけです。
だから観想の対象とするのは、自分にとって親しみやすく、心から憧れて信仰できるような仏様がベストです。
お釈迦様でなくても、例えば文殊菩薩、観音様、ターラー様など、何でも構いません。

私自身は、「六座グルヨーガ」の眼前生起の本尊、一面二臂の持金剛父母尊に決めています。
毎日実修しなければいけない「六座」で精神集中の訓練もしてしまおうという、セコ~イ根性です(笑)。
この持金剛父母尊は、お顔と手を増やして三面六臂にすれば、グヒヤサマージャの本尊に早変わりします。
ヤマーンタカやチャクラサンヴァラの本尊にも、簡単に変えられます。
ですから、この持金剛父母尊に心から慣れ親しみ、まるで「同行二人」のような感覚になることは、無上瑜伽タントラの修行者にとって大変有益なのです。

6月 8日(火) 観想の顕現と維持

一昨日の記事で、初歩的な精神集中の実践として、お釈迦様のお姿を観想して非常に短い時間だけ集中するという話を書きました。
しかしこれは、仏像や仏画を凝視することに集中するという意味ではありません。仏像などを凝視すること自体は、視覚の心(眼識)の働きですが、瞑想の修行は、五感に頼らない心(意識)によって行なうものです。
もちろん、お釈迦様の姿の特徴を心に留めるため、最初に仏像や仏画をよく見るのは構いません。但しそれは、準備段階の作業です。

実際の瞑想に入ったら、意識によってお釈迦様の姿を観想しなければいけません。瞑想の最中は、半眼を心がけるべきです。しかし本当は、半眼であろうと、眼を完全に閉じていようと、眼を開いて周囲のものがよく見えていようと、瞑想の中のお釈迦様の姿は一定していなければいけません。
意識によって観想するというのは、そういうことです。五感の影響を受けずに、心だけの力で認識対象を顕現させ、それを安定的に維持するのです。

意識でお釈迦様の姿をクリアに顕現させるプロセスと、その顕現を安定的に維持するプロセスは、実のところ全く別物です。ツォンカパ大師の『ガクリム・チェンモ(真言道次第広論)』などでは、この点をハッキリおっしゃっています。それに対して、顕教の止の解説の多くは、後者だけにスポットを当てているように思われます。
しかし実際問題として、初心者の場合、前者が容易ではありません。始めからお釈迦様の姿がよく顕現していないのに、それを安定的に維持することは不可能です。これは、集中力の問題ではありません。
この点に気づかないと、初心者は「自分に集中力がないせいだ」と思ってしまい、後者のための手段(例えば、一昨日書いたようなこと)ばかりに気が向いてしまいます。

6月 6日(日) 精神集中

4日の記事では、しょうもない話を書きましたが、自戒を込めて言うならば、勉強でも修行でも精神集中が大事だということです。

瞑想中に他のことを考えたりして、修習すべき対象が心から全く消失してしまうのは、かなり粗いレベルの散乱です。
そうした粗いレベルの散乱は、できるだけ初心者のうちに取り除いておかなければいけません。そうでないと、これが癖になってしまいます。

まずは、非常に短い時間でよいですから、意識を一点集中させる訓練をします。
例えば、15秒間だけお釈迦様のお姿を明確に観想して、絶対に散乱しないようにするとか・・。これは、必ず出来るはずです。
漫然と続けるのではなく、非常に短い時間で区切ることがポイントです。その代わり、自己評価としては「100パーセント集中できた!」と思えるようにします。これを何度も繰り返し、その体験に習熟しましょう。

楽に集中できる状態が安定して得られたら、少しづつ時間を延ばしてゆきます。ですが、無理はいけません。
集中の時間が長くなると、沈み込みが発生しやすくなります。これは、対象を掴む意識の力が弱まって、眠くなったような状態です。
散乱や沈み込みの発生を感知したら、短い時間でうまく集中できたときの体験を思い出し、それと同質の集中状態へ戻すように修正を加えます。

こうした訓練は、止観の瞑想のうち、止の範疇に属するごく初歩的な実践です。

6月 4日(金) 6月に思うこと

学生時代、一学期というのは、5月の連休明けから夏休みまでまとまった休みがなく、天気も悪いし、あまり良い印象がなかったと思いませんか? 
私は、夏休みが待ち遠しくて仕方がありませんでした。授業中も、頭の中で遊びのプランを練っていたものです。

チベットの仕事をするようになってから、この時期には、サカダワ、ザムリン・チサン、ダライ・ラマ法王御誕生日、初転法輪御縁日などが連続し、結構慌しいイメージです。
ポタラ・カレッジの場合、これらの行事を実施しても、定期講習自体はあまり休みになりませんから、日常の勉強が続くという意味で、学校の一学期と似てますよね。
自分の担当の授業が夏休みまでにあと何回か数えたら、まだ10回近くありました。これはちょっと、大変ですね(笑)。

個人的なことをいえば、今年は特に、この時期を無駄にせず、しっかりと勉強しなければいけない状況です。それなのに、なかなか勉強に集中できません。
年齢的に、だんだん無理がきかなくなってきたということもあります。悔しいけれど、こればかりは仕方ないですね。

パソコンで翻訳や執筆をするのも、いろいろ問題があります。
ワープロ専用機を使っていたときの方が、集中できたような気がします。
ちょっと疲れたら、心の中で「気分転換だ」と言い訳して、インターネットで美味しそうなお店探したりとか・・。
だけどそれって、子供のときと基本的に同じ精神構造なのかも(笑)。

5月31日(月) ダライ・ラマ法王、現代日本へのメッセージ

5月も、今日でおしまい。本当に早いですね。

さて6月には、ダライ・ラマ14世法王の御来日があります。
そこでこの機会に、「ダライ・ラマ法王、現代日本へのメッセージ」のページをアップしました。
これは、2003年秋に法王が御来日された際の東京での講演・法話の概要をレポートしたもので、『大法輪』誌平成16年1月号の掲載記事です。
そのときの講演や法話自体は、『ダライ・ラマ 慈悲の力』(マリア・リンチェン訳、春秋社)に収録されています。私のレポートは、それを拝聴した自分なりの受けとめ方を書いたものです。
既に7年の歳月を経過していますが、一般向の講演内容でさえ、今日でも通用するものばかりだと思います。法王の発言や行動は、決してブレない一貫した信念に基づいています。その場限りの無責任な姿勢とは、まさに対極にあるものと言えるでしょう。

5月29日(土) 仏陀の十号

前の記事に載せたお経、短くてすみません。音声データは結構重いですからね・・。

さて、このお経の冒頭部分を、片仮名にしてみましょう。

トゥンパ・チョムデンデー/
テシン・シェクパ/ ダチョムパ/ ヤンタクパル・ゾクペー・サンギェー/ リクパタン・シャプス・デンパ/ デワル・シェクパ/ ジクテン・キェンパ/ キェープ・ドゥルワェー・カロ・ギュルワ/ ラナ・メーパ/ ハタン・ミナムキ・トゥンパ/ サンギェー・チョムデンデー/
ペルギェルワ・シャーキャ・トゥプパラ・チャクツェルロ/ チュート/ キャプス・チオ/

これで、ウンゼー(唱導師)の声が聞き取りやすくなったでしょう(笑)。

訳すと次のようになります。

教主世尊よ、如来、応供、正等覚、明行足、善逝、世間解、調御丈夫、無上士、天人師、仏世尊たる吉祥の勝者、釈迦牟尼に頂礼し奉る。供養し奉る。帰依し奉る。

如来(テシン・シェクパ)から仏世尊(サンギェー・チョムデンデー)までは、仏陀の十号です。

このようにお釈迦様の功徳を称えて礼拝・供養・帰依する精神は、チベット仏教も日本仏教も全く同じだと思います。

5月27日(木) 釈尊の御縁日

本日は、チベット暦の4月15日、お釈迦様の御誕生・成道・涅槃の御縁日です。ポタラ・カレッジ東京センターでは、午後7時45分から「サカダワ大法要」を厳修します。どなたでも自由に参加できますので、是非いらっしゃってください(「上師供養」のプリントをお持ちの方は御持参願います)。
法要に参加できない方も、各自でお釈迦様の御真言「ティヤター・オーン・ムニ・ムニ・マハームナイェー・ソーハー」を念誦なされば、この日は特に大きな功徳になるといいます。

サカダワの御縁日なので、釈尊の功徳を称える「ギュンチャク・スムパ」というお経を、冒頭だけですがお聴きください。唱導は、デプン寺総本堂のウンゼーを務めていたガワン・タシー師。素晴らしい美声ですね!
左端の三角印をクリックすると、音声再生します。1999年ポタラ・カレッジ東京センターにて録音。

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  ---  
0:00

This is a normal list of HTML links to MP3 files, which jsAMP picks up and turns into a playlist.

5月25日(火) ソナム師特別講演のお知らせ(長野県上田市)

ポタラ・カレッジからのお知らせです。
公式サイトにも情報を掲載しましたが、ダライ・ラマ法王猊下の長野御訪問に先だち、6月13日(日)に長野県上田市の宗吽寺でゲシェー・ソナム・ギャルツェン師の特別講演「チベット人と仏教」を実施します。これは、地元のチベット支援団体「チベットの風」との共催によるものです。
第一部では、チベット仏教の概要と人々の信仰について紹介します。
第二部では、日常生活に役立つ実践的な仏教の教え「心の訓練(ロジョン)八つの誌頌」について分かりやすく解説します。
詳しくは、こちらを御覧ください。

5月23日(日) 慈悲を起こす訓練

前の記事に関連した話です。
より本格的な修行というレベルで、慈悲や利他心について検討してみましょう。

「一切衆生のことを考える」といっても、本当の意味でそうするのは、決して簡単ではありません。
なぜなら、実際問題として私たちは、一切衆生の大半を知らないからです。
本心で「自分とは関係ないその他大勢」と思いながら、呪文のように「一切衆生」とか「生きとし生けるものすべて」とか唱えても、慈悲や利他心の効果的な修行にはなりません。

私たちの心に巣食う煩悩は、大別すれば、貪欲・怒り・無知の三毒です。
親しい相手は貪欲の対象、嫌いな相手は怒りの対象、その他の衆生は無知の対象となります。
凡夫の段階では、三毒を完全になくすことはできません。しかし、三毒の働きをなるべく抑制しつつ、慈悲を起こすように訓練することは可能です。

まずは、一切衆生の平等を思念します。
そのうえで、親しい人の苦を心底から思いやり、慈悲の心を修練します。もしかすると、この思いやりには、まだ執着などが少し混じっているかもしれません。でもとりあえずは、「他者の苦しみを思いやる優しい心」という側面に焦点を当てましょう。
そして次に、「過去世で大恩人だったかもしれない」という点などに考えを巡らし、様々な衆生が自分と無関係ではないことを思念します。そして、親しい人のケースと同様の慈悲心を、多くの衆生に対しても起こせるようにしてゆきます。
さらに嫌いな人に対しても同様にできれば、そのときの慈悲心は、かなり純粋なものに近づいているはずです。

こうした修行を瞑想の中で積み重ね、少しづつ実生活にも応用してゆくことで、次第に本物の慈悲や利他心が身についてくると思います。
成果を焦ってはいけません。もし簡単に大慈悲を起こせるなら、私たちは遥か昔に大菩薩の境地を得ているはずです。そう簡単ではないからこそ、大慈悲を起こすための様々な修行法が説かれているのです。そのような課題に私たちが挑戦していること自体を、仏陀や菩薩たちは、とても喜んでくださるに違いありません。

5月21日(金) 祈りの動機

18日の記事に関連した話です。
話題をもう少し一般化し、「祈り」の心について考えてみましょう。

仏菩薩の慈悲が無差別平等なのは分かるし、私たちがそれを理想とすべきなのも納得できます。しかし、私たち凡夫の心のレベルは仏菩薩より遥かに低いし、できることは非常に限られています。そういう凡夫が、何か特定の目的のために祈願しなければいけないとき、「一切衆生」などという大それたことを考えていたら、祈りの力を目的に集中できず効果が生じないのでは?

自分の現実の在り方を正直に見つめたら、そのような疑問も当然湧いてきます。けれども、大乗仏教の三宝に祈願するとき、そういう心配は無用です。
祈りの力は、その動機のレベルが高いほど、強力なものとなります。だからまず最初に、特定の目的だけを考えていた自分の動機を、一切衆生を思いやる菩薩の利他心へ転化させるのです。心底からそうするのは困難でも、「そうあるべきだ」と強く思念して祈るだけで構いません。そのように動機を直すことで、目的を成就させる祈願の力も強くなるし、自分自身の修行にもなります。

例えば、亡くなった方のための追善供養は、故人に代わって私たちが善根を積み、その功徳を故人の来世のために廻向するものです。そのとき、私たちが菩薩の広い心で祈れば、廻向できる善根は遥かに膨大なものとなります。つまり、その人だけのことを考えて祈るよりも、一切衆生のことを考えて祈ったほうが、結果としてその人のためになるのです。

5月18日(火) 大地震と自殺

日曜の夕方にポタラ・カレッジ東京センターで厳修した「東チベット大地震犠牲者追悼法要」は、大勢の方々が参加してくださり、とても有意義な祈りの機会になったと思います。
そのときゲシェー・ソナム師が言っていたように、この大地震の被害は非常に深刻ですが、その死傷者を遥かに上回る数の人々が日本では毎年自殺に追い込まれています。自殺の件はあくまで一例ですけれど、東チベットの大地震という惨事を契機とし、一切衆生の苦に対する大悲を起こして三宝へ祈りを捧げるのが、大乗仏教の実践者のあるべき姿です。
「何の落ち度もない地震犠牲者と、自己責任の側面もある自殺者を同列に扱うのは、ちょっとひっかかるな」と感じるのは、世間の妄分別です。仏菩薩の大慈悲は、そういうレベルを完全に越えています。その大慈悲の心の面から見れば、一切衆生は完全に平等なのです。
だからといって、自殺を肯定するわけではありません。もちろん、自殺に追い込まれてしまった方々には、真に同情すべき事情のあるケースが多いでしょう。ですが、自殺そのものは、やってよいことではありません。このように行為の是非を区別する判断は、大乗仏教でも決して否定しません。それは、世間にとって必要な分別です。
大慈悲の面での完全な平等性と、行為の是非を区別する正しい判断という、この両者を整理して矛盾なく受け入れることは、私たちが慈悲や菩提心を修練してゆくうえでの重要なポイントだと思います。

5月16日(日) 密教タントラの深秘釈

昨日、私の担当クラス「密教の地と道」で、テキストに引用されている『グヒヤサマージャ』根本タントラ第十一分のお言葉を、ツォンカパ大師の『灯作明復註』によって解読してみました。

根本タントラには、「金剛曼荼羅の中心で、胸に種字を置いて光輝を修習する」という主旨の簡単な儀軌が説かれています。
それを『灯作明』で解釈すると、究竟次第の光明から立ち上がった双運の智身の利他行という、極めて高度な実践内容が浮かび上がってきます。

このように、仏陀自身がお説きになった密教タントラは、簡単な表現の裏にも深遠な密意が隠されているのです。
そうした深秘釈を学んでから、再び根本タントラのお言葉を読んでみると、涙が止まらぬほど深い感動を味わうことができます。

5月15日(土) 京都教室と静岡センター

きょうは、ポタラ・カレッジ京都教室と静岡センターの御案内です。

こんどの日曜(16日)には、クンチョック・シタル師担当の京都教室があります。
内容は、「ラムリム・チュンワ」と「ミラレーパの教え」です。

翌月曜(17日午後6時30分~8時)には、静岡センターでゲシェー・ソナム師担当の講話会があります。
静岡センターは、しばらくお休みしていましたが、5月から再開です。ただ6月以降は、日時の変更があるかもしれないので、お手数ですがその都度ご確認ください(問合先はこちら)。

5月14日(金) サカダワ入り

本日から、チベット暦の4月、サカダワに入ります。
サカダワは、お釈迦様に格別の御縁がある月。
その満月の日(今年の場合、新暦5月27日)は、お釈迦様の誕生・成道・涅槃の御縁日とされています。
サカダワに善い行ないを積むと、その功徳は何倍にもなるとか・・。
お釈迦様の御真言は、「ティヤター・オーン・ムニ・ムニ・マハームナイェー・ソーハー」です。

さて、それに関連してポタラ・カレッジからのお知らせです(会員の皆様へは、既に郵便でお知らせ済み)。

1.チベット本土大地震犠牲者の追悼法要
先月東チベットで発生した大地震犠牲者のための、追善供養の法要を実施します。どなたでも、自由に参加できます。日時は、5月16日(日)午後6時45分〜8時頃。「常用経軌集」をお持ちの方は御持参ください。

2.サカダワ御縁日大法要
お釈迦様の御誕生・成道・涅槃の御縁日に、「サカダワ」の大法要を厳修します。どなたでも、自由に参加できます。日時は、5月27日(木)午後7時45分〜9時15分頃。「上師供養」のプリントをお持ちの方は御持参ください。

いずれも、会場はポタラ・カレッジ東京センター、導師はゲシェー・ソナム・ギャルツェン師、費用は無料、予約は不要です。
なお、5月23日(日)の定例法要は、お休みとなります。

5月12日(水) 生起次第の必要性

8日の記事の続きです。

「究竟次第の修行で、煩悩障と所知障を断滅する」ということなら、面倒な生起次第は省いて、最初から究竟次第の修行に努力するのが一番手っ取り早いのでは?
そういう疑問は、当然湧いてきますよね。

でも、それは出来ません。
なぜかというと、究竟次第の修行は、本尊の明確な顕現と慢を維持した意識によって行なう必要があるからです。
それも、空性了解と表裏一体になった意識でなければいけません。
そのような意識を行住座臥に保てるように訓練するのが、生起次第の修行なのです。

究竟次第の修行は、脉管、チャクラ、風、滴など、微細な次元の身心へ働きかける点に特色があります。
そは確かに、現実の身体と深く関連した行法です。
けれどもそれを実践するときに、意識の面では、凡俗の顕現と執着が完全に排除されていなければいけません。
「普通の人間の私」の「普通の肉体」で、「チャクラが開いた」とか「エネルギーが流れた」とか感じたりしても、そのようなことに究竟次第の道としての意味は全くありません。

究竟次第の修行は、人間の死と中有と生を浄化して、仏陀の三身を実際に成就するものです。
そのためには、チャクラや風のヨーガを通じて、死と中有を疑似体験する必要があります。
しかし、それだけでは全く足りません。
死と中有の疑似体験を、光明と幻身に転化できなければ、何の意味もありません。
死と中有そのものは、輪廻の苦を再生するプロセス以外の何物でもないわけですから・・。

仮にある人が、「普通の人間の私」の「普通の肉体」という意識で、究竟次第に説かれているチャクラや風のヨーガを巧みに実践できたとしましょう。
でもそれは、輪廻の苦のプロセスである死と中有を巧みに疑似体験できるという、ただそれだけの意味しかないのです。

5月10日(月) 神田祭

昨日は、神田祭のお神輿の渡御がありました。
ポタラ・カレッジ東京センターにも、瞑想教室と前行道場の間ごろ、お囃子と担ぎ手の掛け声が響いてきました。
ポタラ・カレッジの位置は、神田の真っ只中ですからね。
神田祭は、奇数年が本祭で、偶数年は陰祭(小規模な祭礼)。
今年は陰祭にあたりますが、平将門公の奉祭七百年ということで、神田明神から大手町の将門首塚まで大神輿の渡御が行なわれたようです。
平将門は千年以上前の人物ですが、その祟りを鎮めるために神様として祀ったのが、七百年前ということだそうです。
神田明神の祭神の変遷は、宗教を学ぶ者として、非常に興味深いものがあります。

5月 8日(土) 意識が宇宙と一体化しても「成仏」ではない

6日の記事の続きです。
最後の一文、「本尊ヨーガで当面の目標とすべき本尊の明確な顕現と慢こそ、“仏陀の心の面で”体験する究極の素晴らしい世界にほかなりません」というのは、よく読むと変ですよね。
なぜなら、「究極の」素晴らしい世界なのに、「当面の」目標と言っているからです。

でもこれには、ちゃんと理由があります。
無上瑜伽タントラなら、こうした状況になるのは、生起次第に堪能になったレベルです。
このとき、瑜伽行者の意識の面では、確かに「究極の素晴らしい世界」を体験しています。
もっと俗受けする言い方をすれば、まさに宇宙全体と一体になった感覚です。

しかし、これは観想を反復して意識を習熟させたことから生じる体験です。
実際に自分の心が仏陀のレベルになった結果で生じた体験ではありません。

自分の心を現実に仏陀のレベルまで向上させるためには、煩悩障と所知障を完全に断滅する必要があります。
それを実際に行なうのが、究竟次第の修行です。
だから、生起次第に堪能になった瑜伽行者は、宇宙と一体化したような素晴らしい体験に満足することなく、二障を種子から断じるために究竟次第の実践へ入るのです。

5月 6日(木) 「その心の面で」体験する世界

一昨日の続きです。
今日は、まじめに書きましょう。

「凡俗」というのは、私たちの凡夫としての日常の感覚です。だからその中には、自分にとって望ましいもの、望ましくないもの、どちらでもないものが全て含まれます。
自分の心に、対象が凡俗の存在として現われることを、密教用語で「凡俗の顕現」といいます。
そして、それをそのとおり凡俗のものとして分別・認識することを、「凡俗の執着」といいます。
密教の本尊ヨーガでは、この凡俗の顕現と執着を遮断し、代わりに本尊の明確な顕現と慢を起こすことが、当面の重要な実践課題となります。
「本尊の明確な顕現」とは、自分自身が本尊として顕現し、周囲の世界が曼荼羅として顕現することです。
「本尊の慢」とは、自分自身を本尊として思念する、善い意味での誇りです。煩悩としての慢心ではありません。

本尊ヨーガを実践するためには、必ず灌頂を受けなければいけません。
ですから、今ここで具体的な行法を紹介するのは、適切でないと思います。
ただ、一般論として述べるならば、空性理解が実践の裏づけとなります。
かといって、「全て空で実体が無いのだから、凡夫も本尊も同じだ」というような乱暴な解釈ではいけません。

このサイトでは、「誰も知らない火事」のページの内容が、一つのヒントになるでしょう。ちょっと難しいですけれど・・・。
単なる存在や現象を、私のような凡夫が凡俗のものとして分別することにより、「その凡夫の心の面で」それらは凡俗のものとして成立するのです。
だから、もし私の心が向上して聖者の菩薩のレベルとなれば、「その聖者の菩薩の心の面で」体験する別な素晴らしい世界があるはずです。
もっと向上して仏陀のレベルとなれば、「その仏陀の心の面で」体験する究極の素晴らしい世界があるはずです。
こうした心のレベルの諸段階については、「お化け屋敷の喩え」のページの内容が、ヒントになるでしょう。

中観であれ密教であれ、仏教の理論と実践で重要なポイントは、様々なレベルに設定された「その心の面で」どういう世界が体験されるかということです。
実際に自分が高いレベルに到達していなくても、聖典の記述やラマの教えなど正しい根拠をもとにして(自分勝手な空想はダメですが・・)、「その心の面で」体験される世界を想像できなければいけません。「この想像力が無くては、中観や密教を真に理解することは不可能だ」と言っても過言ではないくらいです。

現在の「凡夫の心の面で」体験している世界が全てではありません。なのに「それが全てだ」と勘違いしている、その心の束縛から離れることが、密教の実践の第一歩です。
本尊ヨーガで当面の目標とすべき本尊の明確な顕現と慢こそ、「仏陀の心の面で」体験する究極の素晴らしい世界にほかなりません。

5月 4日(火) 凡俗の音声を真言に

世の中では、そろそろ連休も終わろうとしている時期ですが、私の場合、今日と明日が初めて連続休暇です。
3月下旬の事前講演から、チャンパ・リンポチェの密教伝授、定期講習の開講、連休の特別行事と続き、ちょっと疲れました。でもよ~く考えると、実際に私自身は、大した仕事を全然やってないんですね(笑)。

我が家は低層の小さなアパートですが、建っている位置のおかげで、眺望は抜群です。
桜の季節は、窓を開けるだけで、山桜とソメイヨシノのお花見ができます。
その後は、八重桜と花水木。そして今は、新緑とツツジです。
最近は、ウグイスやシジュウカラの囀りも楽しめます。
東京二十三区内にしては、比較的恵まれた自然環境かもしれません。

少し離れたところに高校のグラウンドがあるため、野球部の練習している声なども聞こえてきます。
そういえば、南インドのデプン寺境内にあるチャンパ・リンポチェの御自坊は、少年僧たちの学校の隣だから、授業の様子などがよく聞こえます。
お坊さん専用の学校なので、普通の授業のほかに、問答作法の練習や勤行も毎日あります。

その話を聞いて、妻曰く。「あの野球部の子たちの声が、問答やお経だったら、どんなに素晴らしいかしら」。
それは確かに。でも、自分が密教の本尊ヨーガを行住座臥に保持できれば、凡俗の音声も諸尊の真言に聞こえるはず。
私は修行が足りないから、ちょっと難しいですけど・・(笑)。

5月 2日(日) 雑学最終回

本日、「チベット仏教の雑学」最終回をアップしました。
最後のオチがポタラの宣伝になってるのは、今読むとちょっとイヤミですね(笑)。
最近は、雑誌記事などを書くときも、露骨な宣伝は避けるようにしてます。読者に宣伝目的と思われたら、記事の価値が一気に低下しますから・・。
ただ、この「チベット仏教の雑学」の連載を書いた2000年の秋は、まだポタラ・カレッジが誕生して間もない頃。「何とかして、ポタラの存在を知って欲しい」という一心だったと思います。
心に余裕がなく、何かに強く執着していると、当たり前の道理も見えなくなってしまう・・・という良い例ですね。

4月29日(木) 「ゲルク派の概要」のページ

昨日、ゲルク派の概要のページをアップしました。
これは、大部分書きおろしです。
サイト名「ゲルク派宗学研究室」を名乗っていながら、「ゲルク派とは何か?」という基本的な問いに答えるページが無いのはまずいですから、急ごしらえで作成しました。
ポタラ・カレッジで長く勉強している方には、当たり前の内容ばかりですね。
そのうち写真でも貼り付けて、もう少し面白いページに仕上げましょう。

4月28日(水) 「常用経軌集」再版

しばらく品切れになっていた『チベット仏教 常用経軌集』(ポタラ・カレッジ チベット仏教叢書3)の再版が出来あがり、先週から頒布可能となっています。
日常の勤行などで用いる代表的な経軌を集め、チベット文、片仮名読み、和訳を併記したものです。
薄くて持ち運びやすいし、一冊持っていると結構便利です。
詳しくは、こちらを御覧ください。

4月26日(月) 連休集中講座「量評釈現量品の解説」

早くも、連休の季節ですね。
春に密教伝授があったから、季節の移り変わりが余計早く感じられます。

さて、連休中の特別行事に関するポタラ・カレッジからのお知らせです。
ポタラ・カレッジ東京センターでは、今年の連休も集中講座を実施します。
5月1日(土)と2日(日)の両日、クンチョック・シタル師の担当で、ダルマキールティの『量評釈』現量品を解説します。仏教論理学を通じて、心が対象を認識する仕組みを考察するという内容です。これは、どなたでも受講できます(要予約)。
その他では、4月29日(木・祝)に、ゲシェー・ソナム師の担当で、「六座グルヨーガ」の解説を行ないます。これは、無上瑜伽タントラの灌頂受法者が対象です(要予約)。
5月3日(月・祝)から5日(水・祝)の3日間は、ゲシェー・ソナム師の担当で、「チッタマニ・ターラー」の行法解説を実施します。これは、チッタマニ・ターラーの灌頂受法者が対象となります(要予約)。
いずれも、まだ受講申し込み可能です。お問い合わせ、お申し込みは、ポタラ・カレッジ東京センターまで。TEL.03-3251-4090 info@potala.jp

なお、東京センターの定期講習は、上記集中講座の実施日は全て休講となりますが、それ以外は通常どおり授業を行ないます。

4月25日(日) 雑学第7回

「チベット仏教の雑学」連載第7回をアップしました。
今回の内容は、五道・十地の修道論(サラム)のエッセンスです。

定期講習で私が担当しているコース「グヒヤサマージャに合わせた密教の地と道」は、無上瑜伽タントラの生起・究竟二次第を、五道・十地の修道論と結びつけて考察する内容になっています。昨日ちょうど、大乗一般に於ける十地の設定に関する話をしたところです。

さて本日は、ゲシェー・ソナム師担当の京都教室があります。
東京センターでは、夕方に定例法要を実施します。

4月23日(金) 真言鬘の観想

大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師と随行僧シェーラプ・ドルジェ師を、21日に成田空港でお見送りしました。無事にデリーへ御到着された旨を、昨日確認しました。
リンポチェは、出発時に多少お疲れの御様子でしたが、十分に休養なさり、今はお元気だとのことです。

密教伝授に関連する件で、書こうと思いつつ忘れていたことがあります。正念誦のときの、真言鬘の観想です。
灌頂受者の専用ページではないため、具体的には説明できませんが、「種字の周りに真言の輪がある」と観想して念誦するとき、その文字の輪は静止状態で観じるのが一般的です。
これを、「まるで環状線の電車のように、文字の列が動いて周回する」と勘違いしているケースが結構あります。
もちろん、様々な行法の中には、回転状態で観想すべきものもあります。しかし、特に明記されていなければ、通常は静止状態で観想します。
その静止している文字の輪を、中心の種字の位置から見て読んでいくと、読んでいる意識の指向先は回ることになります。これが、「右回り」とか言われる意味です。
チャンパ・リンポチェ御自身が前回の密教伝授で明言なさっていたし、私の授業でも再三言及していることですが、意外と誤解が多いのでこの機会に書いておきます。
せっかく何返も真言をお誦えするのに、そのときの観想内容が正確でないのは、ちょっと残念ですからね。

4月21日(水) 春からの定期講習スタート

密教伝授の余韻が残っている中、ポタラ・カレッジ東京センターの定期講習が、昨日から始まりました。
詳しくは、こちらを御覧ください。
コース制の科目は、1回無料で見学できます。いろいろと様子を見ながら、自分に合った学修のしかたを探してゆけます。
是非お気軽にいらっしゃってください。

4月20日(火) 雑学第6回

昨日、「チベット仏教の雑学」連載第6回をアップしました。
前回までは、僧院教育の中でもドゥータ、ロリク、タクリクという入門三課程についての話題でしたが、今回からは本格的な仏教の内容に入ります。
その中心となるのが、般若学と中観学です。前者は、「般若経」の行間に隠れた意味を考察するもので、根本となる論書は弥勒菩薩の『現観荘厳論』です。
「そんな重要な教えなら、是非読んでみたい」と思うのが人情ですけれど、『現観荘厳論』の和訳を読んでみても、何が何だかさっぱり分かりません。実は、チベット語でも同じなのです。
なぜかというと、韻文で項目だけを羅列したような表現だからです。それで、いろいろな註釈書を参照すれば、一応分かりやすくなりますが、今度は分量の多さに圧倒されてしまいます。
そのようなわけで、この般若学の学修には、かなり長い年月を要します。
こうした般若学の膨大な中身を、実践的な教誡としてまとめたものが、「ラムリム」なのです。ただ「ラムリム」だけでは、般若学の中心課題である五道・十地の修道論(サラム)について、完全にはカバーしきれていません。
それゆえ、あくまで自分個人の実践のための学問として割り切るなら、「ラムリム」に五道・十地の修道論を加えて勉強すればよい・・・と言えるかもしれません。

4月19日(月) チャンパ・リンポチェの密教伝授成満

大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師とゲシェー・ソナム師

昨日の長寿灌頂とグルプージャをもって、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師の密教伝授は、全ての行事を予定どおり無事終えることができました。
とても中身の濃い貴重な教えの数々が実現し、極めて有意義な伝法の機会となりました。
リンポチェの御体調も、私たちが心配していたよりずっと良好で、本当によかったと思います。
多くの皆様が真心から祈ってくださった、その願いが通じた結果に違いありません。
参加者の方々の御協力、会員ボランティアの御努力に、心から随喜と感謝を捧げます。

4月17日(土) 薬師如来の灌頂

本日は、薬師如来の灌頂があります。
既に満員で締め切りとなっているため、狭い会場で大変窮屈な状態になると思います。
本当に心苦しい限りですが、なるべく多くの方々に貴重な仏縁を結んでいただくためということで、どうか御辛抱くださいますようお願いいたします。

ところで、この灌頂に関しては、受者の皆様へ謝らなければいけない点がもう一つあります。
案内書や公式サイトでは「完全な灌頂」ということでお知らせしておりましたが、リンポチェの深いお考えにより、「許可灌頂」に変更されました。
これは、完全な灌頂だと薬師如来の一尊法となるのに対し、許可灌頂だと八仏薬師として修法できるため、今回はその方がふさわしい・・・というお考えによるものです。
早い段階で皆様へお知らせできず、本当に申し訳ありませんでした。

その代わり、許可灌頂だと少し時間の余裕が生じるため、灌頂の後で成就法の伝授をなさっていただくことになりました。そのための資料も、昨日用意しました。
御承知のとおり、灌頂法儀の最中は、録音禁止となっています。本日もその点は同じですが、灌頂が終わって成就法の伝授に入ったら、各自で録音することもできます(但し、あくまで御自分の復習のためにのみ使用してください)。

なお、日曜の阿弥陀仏の長寿灌頂は、まだ空きがあります。

4月16日(金) チベット仏教と阿弥陀如来

昨日、チベット仏教と阿弥陀如来のページをアップしました。7年前の『大法輪』誌に掲載されたものです。
今度「阿弥陀仏の長寿灌頂」を受けられる方には、特に参考になるかもしれません。
その中に貼り付けた写真は、無量寿仏を中心とする長寿祈願の三本尊で、向かって左下は白ターラー、右下は尊勝仏母です。

4月15日(木) ジェクンドの震災

昨日、チベット本土のジェクンドで大規模な地震があったと報じられています。
中国の行政区画では青海省に入っていますが、デルゲのさらに奥地にあたり、カム地方の最深部というべき場所です。もともと地震の多発地帯で、また十数年前には大規模な雪害に見舞われるなど、チベットの中でも自然条件の過酷な土地のように思われます。
被害にあった人々に、護法尊の加護がありますように!

ところで地震といえば、日本も大変危険な状況にあるわけですが、ポタラ・カレッジの第2会場に安置されている仏塔は、地震に対する息災の祈りが込めれています。
会員の方の発願で建立され、2007年に大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師によって開眼されたものです。
地震多発地帯だったダラムサラも、仏塔を安置してから、被害を免れているといいます。

4月14日(水) グルプージャと謝恩パーティ

大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師の密教伝授に関連する、ポタラ・カレッジからのお知らせです。

  1. こんどの日曜(4月18日)の午前9時から行なわれる「阿弥陀仏の長寿灌頂」は、まだ空きがあります。
    今からでも、お申し込み可能です。例外として、16日(金)までは、メールでも受法申込を受け付けます(予約なしでの参加はできません)。
  2. 長寿灌頂の終了後、午前11時から12時半頃まで、法礼として「グルプージャ(上師供養)」の法要を厳修します。会場は、ポタラ・カレッジ東京センターです。この法要は、予約不要で、どなたでも参加できます。
    10時半より前は、長寿灌頂が行なわれているので、同灌頂の受者以外は中へ入れません。
    「上師供養儀軌」のプリントを持っている方は、必ず御持参ください。
  3. 同じ4月18日(日)の午後1時から、リンポチェへの感謝を込めて「謝恩パーティ」を実施します。場所は、第2会場近くのインド料理店、費用は1名2,500円です(要予約)。
    お店のスペースが狭く、着席スタイルなので、お早めに予約なさってください。

上記1と3の予約は、TEL.03-3251-4090、またはinfo@potala.jpまで。

4月13日(火) 六座グルヨーガ

無上瑜伽タントラの大灌頂を受法したら、「六座グルヨーガ」を毎日修行する必要があります。
宗祖ツォンカパ大師は、密教の修行の道筋として、「顕密共通の道(ラムリム)の修練→灌頂の受法→律義と三昧耶の保持→生起次第の実修→究竟次第の実修」という段階設定を明確にお説きになっています。
前の段階を経ずに、後の段階へ入ることはできません。また、後の段階へ入ってからも、前の段階を併行して実践する必要があります。
これらの中で、「律義と三昧耶の保持」を具体的に実践する行法が、「六座グルヨーガ」なのです。
そうであるなら、例えば、主に「共通の道」の実修法となる「ガンデン・ラギャマのグルヨーガ」や、或は「生起次第」の実修法である「成就法」などによって、「六座グルヨーガ」を代替することはできません。
過去にポタラ・カレッジで無上瑜伽タントラの大灌頂を受法した方の一部に、この点をよく理解なさっていないケースが見受けられるので、特に気をつけて欲しいと思います。
各自の自由意思で様々な修行法を学び、それらの中から自分に合ったものを実践するのは、とてもよいことです。
ただ、灌頂での誓約事項となっている修行を、それらと同列に考えたり、それらによって代替しようというのは、正しくありません。
「六座グルヨーガ」の修行を義務感だけで続けるのは、非常に辛いものです。しかし、この行法の重要性や深い意味、実践のコツなどが分かってくれば、毎日の修行も苦痛ではなくなります。そして、日々の実践の積み重ねにより、無上瑜伽タントラの瑜伽行者としての素養が、自然と身についてくるのです。
このサイトでも、灌頂受者専用ページなどで、そうしたノウハウを少しづつお伝えできればと思っています。

話は変わりますが、「チベット仏教の歴史と特色」のページの下の方へ、南インドのムンゴットに再建された大本山デプン寺大集会堂の写真を貼り付けました。大集会堂というのは、デプン寺全山の僧侶が集まって勤行する総本堂です。以前は境内で一番大きなお堂でしたが、今では老朽化して、すっかり手狭になっています。

4月12日(月) 雑学第5回

「チベット仏教の雑学」連載第5回をアップしました。
まあ今回のは、「屁理屈の論理学」ってタイトルの方がよかったかもね(笑)。

4月11日(日) 「本尊と出会う」ということ

一昨日と昨日の話題に関連して、次のようなことも言えます。
「心によって向うへ置いたように観想すべきだ」という点も含め、密教の瞑想は、成就法の儀軌に沿ってあらかじめ計画したとおりに観想すべきです。
そのような手法をとらず、「本尊が向うから突然現われた」などという感覚が生じたり、あたかもそうであるかのように瞑想しても、修行の成果として信頼できるものではありません。
宗祖ツォンカパ大師は、『ガクリム・チェンモ(真言道次第広論)』第十二品で、次のようにおっしゃっています。

体感に依存して突然生じたものは、信頼すべきでない。「生起次第に堪能」とは、自分が観想したところのものは現われ、〔観想〕していないものは現われない〔ということだ。つまり〕、どのくらいのものを観想したかという、その範囲を越えないものが現われるべきなのだ。

昔の聖者たちが「本尊と出会った」というのも、正しい修行を徹底的に積み重ねた結果として、自己の意識が完全に本尊ヨーガの状態となり、その意識の面で智尊(それの具体的な在り方は、3月29日に書いた「ラマ・タン・ツォヲ・タミテーパ」)を直接感得できるようになった・・・ということです。
しかしながら、そうやって他者としての本尊と出会ったり、その導きを受けたり、或は智尊との一体感を体験しても、それが修行のゴールだというわけではありません。
最終的には、完全な本尊ヨーガを達成した自分自身の意識の微細な次元に於て、光明と幻身を実際に体験し、その両者の後続分として本尊の法身と色身を成就することが、無上瑜伽タントラの道なのです。
従って、「本尊と出会う」という究極的な意味は、未来に自分自身が成就する本尊と出会うことにほかなりません。

4月10日(土) 密教実践の裏づけとなる見解

昨日の続きです。
「心によって向うへ置いただけ」ということは、中観二派に共通して設定できますが、その中身については、両学派で微妙な差異があります。
昨日のブログで、「心によって向うへ置く」という意味について、「その時点で得えられた情報に頼りながら向う側のものを認識する」と書きました。
その「与えられた情報」に該当するのが、スヴァータントリカの場合、世俗の自相となります。プラサーンギカだと、単なる存在の単なる属性ということになります。
「心によって向うへ置いたのではなく、向うからこちらへ現われてくる」と想定されるものは、スヴァータントリカの場合、勝義の自相、つまり諦成就の存在です。しかしプラサーンギカに言わせると、スヴァータントリカの考えている「世俗の自相」までもがそれに含まれます。
いずれにせよ、「心によって向うへ置いたのではなく、向うからこちらへ現われてくる」と想定されるものこそ、空によって否定されるべき対象です。この否定対象dgag byaを、どのような範囲に設定するかというテーマは、中観思想を理解する最重要ポイントの一つです。
これについては、「誰も知らない火事」のページで、論理的に考察しています。
密教の修行は、プラサーンギカの見解を裏づけに実践できれば、一番理想的です。けれども、それが難しいなら、とりあえずスヴァータントリカや唯識派の見解を採用しても構わないといいます。ただその場合、いずれは、プラサーンギカの見解へレベルアップさせる必要があります。

4月 9日(金) 心によって向うへ置く

チャンパ・リンポチェが伝授でよくおっしゃる「心によって向うへ置いただけ」blos phar bzhag pa tsamとは、どういう意味でしょえか? ちょっと考えてみましょう。
例えば、向うから歩いて来る人を見て「あっ、シェーラプさんだ」と私が認識するのは、私の心によって向うへ置いただけ・・・ということです。
これは、「シェーラプさんが外側の対象として存在しないのに、私の心がそのように虚構して認識している」という意味ではありません。
私が「シェーラプさんだ」と認識したところの人物は、外側の対象として確かに存在します。
その人物が向うからだんだん近づいて来るとき、私は時間の経過とともに、「人が来る」、「お坊さんだ」、「シェーラプさんだ」というふうに認識します。外見的な特徴を見て、情報が明確になるにつれ、詳しく認識できるということです。
このように、その時点で得えられた情報に頼りながら向う側のものを認識するのが、「心によって向うへ置く」という意味です。
しかし私のような凡夫は、このとき同時に、「それをそれたらしめている本質的なものがそれ自体の側にある」というふうに、当然の如く思い込んでしまいます。
本当に「それをそれたらしめている本質的なものがそれ自体の側にある」ならば、向う側のものは、それ自体の力によって私の心へ現われてくるはずです。そうすると、距離などに関係なく、常に必ず「シェーラプさんだ」と認識できるはずです。もちろん、そんなことは現実にあり得ません。
つまり、あり得ないことの因となるような、あり得ない実体性を、私は習慣的・無意識的に認識対象へ付与してしまっているのです。何の疑いも持たずに!
これが、「心によって向うへ置いたのではなく、向うからこちらへ現われてくる」という感じ方です。だから、「向うからこちらへ現われてくる」というのは、中観の空によって断じられるべき認識方式です。
密教で本尊や曼荼羅を観想するときは、実体視の習慣を意識的に排除し、「心によって向うへ置いた」ような感覚で修習すべきだ・・・というのが、リンポチェのおっしゃっている意味です。
これは、自分自身を本尊として立ち上げる我生起についても言えることですから、「向うへ置く」というのは、距離的に近いか遠いかという意味ではありません。

4月 8日(木) 花まつり

鐘と桜

今日は、花まつり。
チベット仏教では、お釈迦様の誕生日は「サカダワ」といい、チベット暦の4月15日です。今年だと、新暦の5月27日になります。
でも私は日本人ですから、「花まつり」にも、できるだお参りに行きます。
写真は、私のお気に入りの真言宗のお寺。
火曜日に撮ったものですが、気温の低い日が多かったせいか、桜が長もちしてくれました。
まるで「京鹿子娘道成寺」の舞台みたいですね。

4月 7日(水) 春からの定期講習の情報

ポタラ・カレッジの公式サイトに、春からの定期講習の情報をアップしました。こちらを御覧ください。
公式サイトの更新は、私のような素人には困難なので、会員の方にボランティアでお願いしています。年度替りで忙しい時期に、面倒な仕事を引き受けていただき、本当に頭の下がる思いです。
定期講習案内書の封入・発送や、いま東京センターで行なわれている密教伝授の準備・運営などもそうですが、ポタラ・カレッジの様々な活動は、熱心な会員・受講者のボランティアによって支えられています。それが無ければ、一歩も前へ進むことはできません。この厳しい御時勢に、ポタラ・カレッジのような小規模な団体が存続していられるのは、まさにこうした会員・受講者の方々のお蔭なのです。

4月 6日(火) チッタマニ灌頂受者のページ

昨日、チッタマニ・ターラー灌頂受者のページを作りました。
四灌頂の要点や四事業の真言、及び三昧耶戒を復習することができます。
これは、未灌頂の方へは公開できない中身なので、パスワード認証をかけました。
灌頂を受けている方には、とても役にたつ内容ですから、該当者は遠慮なくお申し出ください。

「チッタマニ・ターラー」は、独特の要素が多いため、今回特別に専用ページを作成しました。
ポタラ・カレッジで実施する様々な灌頂について、今後いちいち専用ページを作るわけではありません。
将来は、ゲルク派密教三大本尊(グヒヤサマージャ、ヤマーンタカ、チャクラサンヴァラ)に共通する大規模な非公開ページ群を構築したいと考えております。
今回の「チッタマニ」は、それのモデルケースの意味も兼ねています。御意見や御希望など、是非遠慮なくお寄せください。

4月 5日(月) 雑学第4回

「チベット仏教の雑学」連載第4回をアップしました。
今回のテーマは、僧院教育の入門課程「タクリク」で学ぶ因の三相です。ちなみに、この記事で「論拠不成立」と言っているのはrtags ma grub、「必然的でない」はma khyabのことです。ゲルク派学僧の哲学書を読み解くキーワードです。

大阿闍梨チャンパ・リンポチェとシェーラプ師;ポタラ・カレッジ東京センター、'10.4.4

さて、昨日の「チッタマニ・ターラー」灌頂受者の皆様、混んでいるなか長時間、本当にお疲れ様でした。
大変貴重な受法体験になったと思います。是非、自分自身の善行に随喜してください。
上の写真は、法儀冒頭のゲクトル(魔封じ)の様子です。

4月 4日(日) チャンパ・リンポチェの御法話

チャンパ・リンポチェ;ポタラ・カレッジ東京センター、'10.4.3

昨日の御法話、素晴らしかったですね。
とても分かりやすく、ためになる教えだったと思います。
御自身について「死んだらたぶん地獄に生まれる」というお話、初めて聞いた方は驚いたかもしれませんが、リンポチェのよくおっしゃることです。
その密意は、「弟子の中に一人でも地獄へ堕ちる者がいたら、必ず自らそこへ赴いて救い出す」という意味に解釈すべきです。まさに、大慈悲の御誓願にほかなりません。

リンポチェは、私たちが思っていたよりお元気だったので、ひと安心です。

今日の灌頂も、かなり窮屈な状態になると思います。
どうか御辛抱くださいますよう、引き続きよろしくお願いいたします。

4月 3日(土) 春からの定期講習案内書

昨日、ポタラ・カレッジ定期講習会の案内書・申込書を発送しました。
早ければ今日、遅くても来週初めには届くと思います。
ガワン先生の「大乗荘厳経論」やクンチョック先生の「入中論」など、インド大乗仏教の本格的な論書に取り組むコースが新規開講されます。御期待ください! 
東京センターでは、4月20日から順次スタートします。京都教室は、今月は第四日曜の25日に行ないます。

さあ、いよいよ今日から、チャンパ・リンポチェの教えが始まりますね!
初日と二日めは、既に満員となっています。狭い会場に大勢の受者の方が座るため、とても窮屈だと思います。主催者として、心苦しく、大変申し訳ないです。
「極めて得難い伝授の機会に、できるだけ多くの人々が御縁を結ぶための利他行だ」とお考えいただき、どうか御辛抱くださるように、伏してお願いいたします。

4月 2日(金) チャンパ・リンポチェの「般若心経」法話

久しぶりにチャンパ・リンポチェとシェーラプさんにお目にかかることができて、とても感激です!
本当に、よく来てくださったと思います。

さて、ポタラ・カレッジの公式サイトに、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師による『般若心経』の御法話を掲載しました。こちらを御覧ください。
1999年5月に立正大学石橋湛山記念講堂でお説きになったものです( 「ポタラ通信」2000年秋号掲載記事)。
これほど簡潔で要点を衝いた『般若心経』の解説を、私は他に見たことがありません。いま改めて読んでみると、当時の私が十分理解できていなかった奥深い内容を、あちこちに再発見できます。そして、この御法話の素晴らしさを、心底から実感させられます。
リンポチェが再び来日してくださったこの機会に、皆様も是非お読みになってください。

4月 1日(木) 速報

大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師と随行僧シェーラプ・ドルジェ師、今朝成田空港へ無事御到着になりました。
4月3日(土)の御法話と4日(日)のチッタマニ・ターラー灌頂は、満員となったため、予約を締切りました。
他は、まだ空きがあります。

3月31日(水) 空だから存在しない?

昨日の続きです。
密教の伝授の中で、ラマはときどき、こうおっしゃいます。
「今まで瞑想してきた本尊や曼荼羅も、実体の無い空です。そのことを考えて、曼荼羅や本尊が虚空へ溶け込んだようにイメージしてください」。
これを聞いて、「あっ、そうか! 本尊や曼荼羅も、心にイメージしただけのもので、実在しないんだよね」って思ってしまうのは、正しくありません。
「実体の無い空」であるのは、自分自身も同じです。
自分自身は、実在しないものですか? 全然存在していないのですか?
違いますよね。自分は、確かに存在しています。
けれども、自分の実体を徹底的に追求すれば、「これだ」と掴めるものが何も無いから、それで「空」だと言うのです。
本尊や曼荼羅も、同じです。実体を徹底的に追求すれば、何も得られません。だから、本尊や曼荼羅は空なのです。
しかし、そのように実体性を追求しなければ、本尊や曼荼羅は確かに存在します。
では、どのように存在するのかといえば、29日に書いた「ラマ・タン・ツォヲ・タミテーパ」という在り方で、現実に存在しているのです。

3月30日(火) 本尊と空性

トップページの冒頭に作った目次欄に、宗祖ツォンカパ大師の尊像を安置しました。
これは、南インドに再建されたガンデン寺総本堂の仏塔です。

さて、昨日の続きで、密教の灌頂を受法するときに気をつけるポイントを紹介しましょう。
「初めに絶対者ありき」という考え方では、正しい密教の修行になりません。本尊は、絶対者ではありません。本尊を、中観の「空」を超越する実体として捉えてしまうと、大きな誤解になります。
本尊も、自分自身も、ともに空です。この両者の空性を一味として修習し、そうした一味の空性の状態から、自己を本尊として立ち上げます。これが、密教の本尊ヨーガの基本です。
だから、本尊を実体視する考え方を擁している限り、密教の修行は成り立ちません。
ツォンカパ大師は、『ガクリム・チェンモ(真言道次第広論)』第一品でこの点を強調し、「〔空性を修習せずに〕本尊ヨーガだけを修習するなら、永遠に成仏できない」と戒めています。
しかし、「本尊や曼荼羅は空だ」と言うと、別な誤解を招く恐れもあります。その点は、また明日にでも・・。

3月29日(月) ラマと本尊

間もなく大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師の灌頂がありますが、密教の灌頂を受法するときに気をつけるポイントを簡単に紹介しましょう。
「本尊という絶対者がどこかに存在し、それと私を結び付ける橋渡し役が、灌頂を授けてくださるラマだ」というふうに、つい思ってしまいがちですよね。でも、そういう考え方はダメです。
ラマは、「橋渡し役」ではなく、本尊そのものです。「ラマを離れて本尊は存在しないし、本尊を離れてラマは存在しない。ラマと本尊は一心同体だ」と強く信解してこそ、灌頂の加持力は確かなものとなります。
それを、チベット語で「ラマ・タン・ツォヲ・タミテーパ」といいます。「ラマと主尊が不可分のもの」という意味です。これこそ、三宝を一身に体現した存在であり、密教行者の帰依の対象です。
但しこれは、「凡俗のカリスマ崇拝」とは全く異なります。仏身論や本尊ヨーガなどの巾広い理解に基づいて、論理的によく納得したうえで、正しい信心を確立することが重要です。
簡単な説明なら、『チベット密教 修行の設計図』の第八~九章にも出ています。

「なんだ、結局本の宣伝かよ」
「ごめん、ごめん。立ち読みでもいいよ(苦笑)」

3月28日(日) 雑学第3回

「チベット仏教の雑学」連載第3回をアップしました。
今回のテーマは、僧院教育の入門課程「ロリク」で学ぶ顕現不認識snang la ma nges paという心の状態です。

それから、トップページの構成を少し変えました。
冒頭に、簡単な目次と新着記事の欄を設けました。

第四日曜なので、ポタラ・カレッジ東京センターで、定例法要を厳修します。

3月27日(土) ゲルク派の宗風

ラムリムの概要」のページの冒頭で書きましたが、チベット仏教の実践体系は、小乗・大乗・密教という三重構造になっています。「外面の在り方として小乗の生活をし、内面の心として大乗の教えを学び、秘密の行として密教の瞑想を実践する」というのが、ゲルク派の宗風です。
出家者であれば、僧侶や尼僧として小乗の戒律を守り、仏法を守り伝える役割りを果たさなければなりません。在家者であれば、善き社会人として、出家者を敬いつつ支援すべきでしょう。しかしこれらは、外面的な役割り分担にすぎません。出家でも在家でも、内面の心としては、慈悲・菩提心・空性理解という大乗仏教のエッセンスを体得するように努める必要があります。そして密教は、最も深遠な瞑想であるからこそ、できるだけ人知れず修行すべきなのです。
従って、いかにも「私は密教行者でございます」というような名前や外見にこだわり、またそのような言動を弄するのは、ゲルク派のセンスから見ると、かなりダサくて格好悪い所業だということになります。出家なら一介の顕教の僧侶のように、在家なら普通の社会人のように振舞いつつ、実は凄い密教行者だった・・・というのが、最も洗練された理想的な在り方なのです。

3月25日(木) 誰も知らない火事

昨日、誰も知らない火事のページをアップしました。
中観スヴァータントリカとプラサーンギカの見解の微妙な落差を、論理的に考察する内容です。

空性理解を深めるポイントは、「空によって否定されるものが何か」を実感的に把握することです。そのためには、両学派の見解の落差を吟味するのが、とても効果的だと思います。

3月23日(火) 桜の開花

きのうは、お蔭様で、灌頂の事前講演を無事に終えることができました。参加してくださった皆様、ありがとうございます。
午後は、休憩無しになってしまい、すみませんでした。長時間窮屈な席で、お疲れになったと思います。

自宅の近くの川沿いで、ソメイヨシノが開花しているのを見つけました。今年も早いですね。花祭りの日に桜を観るのは、もはや東京では無理なのでしょうか・・。
でも、チャンパ・リンポチェの御来日を、見頃の桜で歓迎できるかもしれません。

3月21日(日) 雑学第2回

「チベット仏教の雑学」連載第2回をアップしました。

日曜はお彼岸の中日で祝日と重なっていますが、ポタラ・カレッジ東京センターの定期講習は実施します(2月14日がロサルで休講となったため)。京都教室もあります。

風が強いみたいなので、気をつけましょう。
最近は、ポタラ・カレッジの近くにも高層ビルができて、思わぬ突風が吹くこともあります。

3月19日(金) 灌頂事前講演

ポタラ・カレッジの公式サイトでお知らせしているように、もうすぐ大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師が御来日されます。ポタラ・カレッジ東京センターで、4月3日から18日にかけて、御法話や密教の灌頂を予定しています。「チベット仏教との御縁2」のページなどでも書きましたが、チャンパ・リンポチェは、密教を隅々まで知り尽くした真の大阿闍梨です。本当に貴重な受法のチャンスになると思います。ただいま、参加申込みの受付中。詳しくは、こちらを御覧ください。

その事前講演を、3月22日(月・振休)に、ポタラ・カレッジで行ないます(要予約)。今回は、私が担当します。五道十地の修道論(サラム)に基づいて、密教を実践する本当の意味を、分かりやすく説明したいと思います。まだ少し空きがありますから、御関心のある方は、お問い合わせだけでもお気軽にどうぞ。 ポタラ・カレッジinfo@potala.jp

3月18日(木) サイトマップ作成

サイトマップ」を作りました。
そのページの弥勒菩薩像は、南インドに再建されたゲルク派総本山ガンデン寺チャンツェ学堂で撮ったものです。

本サイトを御利用になる皆様の立場から考えた場合、まず第一に、「何の記事がどこにあるか」ということが、コンテンツの増加とともに分かりにくくなると予想されます。それで、早めにサイトマップの枠組みを作成しておきました。
もう一つの問題は、どうしても文章量が多くなってしまうため、読んでいると目が疲れるということです。それで、長文のページは、背景を淡いグレーやクリームなどにしてあります。どの色が、一番疲れにくいですか? 私は「グレーかな」と思っているのですが、あまりグレーのページばかりだと、ちょっと陰気な感じになっちゃいますよね(笑)。

3月17日(水) ラムリムの概要

ラムリムの概要」のページをアップしました。
これは、書きおろしです。
「初心者の方にも分かりやすい紹介文にしよう」と思って書きましたが、簡潔に分かりやすく書くというのは、やはり難しいですね・・。

3月15日(月) 雑学の連載スタート

サイト開設のお祝いのメールをくださった皆様、本当にありがとうございます。
皆様にとって役にたつサイトとなるよう、少しづつ改善を重ねてゆきます。
どうか、長い目で見守ってください。

さて本日は、「チベット仏教の雑学」のページをアップしました。
これは、10年前に「仏教タイムス」紙で連載された私のコラムです。
順に読んでいくと、チベットの僧院でどんな学問と修行が行なわれているのか、結構よく分かります。
毎週1回分をアップしていきますから、続けて読んでくださいね。

3月12日(金) サイト開設

本日はチベット暦でよい日なので、このサイトの開設日とします。

まだコンテンツが少なくて、すみません。
フレンチやイタリアンや中華のレストランがあると思って行ったホテルで、コーヒーハウスしか開いてなかった・・・みたいな感じじゃよくないですから、これから徐々に増やしてゆきます。

まずは、ラムリム、五道と十地の修道論、中観思想などの分野から手をつけ、そのうち密教についても触れたいと思います。
パスワード付きで、灌頂受法者限定のページも作り、密教の本格的な話をできれば・・・と思っています。

どうぞ御期待ください!

南インドに再建されたガンデン寺チャンツェ学堂の仏塔

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