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チベット仏教の雑学

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チベット仏教の雑学

このページでは、2000年秋に『仏教タイムス』紙で連載されたコラム「チベット仏教の雑学」を、毎週順番に紹介します。
チベットの僧院でどんな学問と修行が行なわれているのかを、分かりやすく説明しています。

チベット仏教の雑学(その1) 徹夜も辞さぬ問答

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 昨年の初夏、私どもの団体の主催で、「チベット密教芸術祭」という催しを開いたことがある。南インドの亡命チベット人社会に再建された大本山デプン寺から僧侶たちを招き、声明や仮面舞踊を披露してもらう公演を東京と静岡で実施した。そのとき、来場してくださった方々に意外と好評だったのが、教義問答の実演である。手を叩いて返答を迫る動作や口調がとてもユーモラスで、客席から思わず笑いが湧き起こっていた。
 チベット仏教の僧院では、こうした問答が大変重要視されている。僧侶たちは、問答を繰り返すことにより、聴聞した教えの理解を深めてゆく。それが十分確実なものとなってから、瞑想を通じてその教えの心髄を体得するのだ。
 問答は、激しい議論の応酬になったり、冗談や揶揄を交えたりしながら、ときには徹夜で続けられる。質問と答えのやりとりは、仏教論理学の表現形式に則してなされ、勝手に意見をぶつけ合うことはできない。その中身は、仏教哲学の極めて高度な課題にまで及ぶ。
 もっとも、入門してすぐに難しい問答はできないので、僧侶たちは最初に諸存在の分類法から学んでゆく。視覚の対象、聴覚の対象・・・意識の対象といった具合だ。仏教用語でいえば、五蘊・十二処・十八界など。まずは言葉の定義を明らかにし、相互の関係性を理解してゆく。例えば、「視覚の対象(色処)ならば、必ず物質的な要素(色蘊)の範疇に入る」というように、各々の概念の範囲や包括関係を正しく知ることが大切である。
 さて、そのとき初めによく与えられる質問を、一つ紹介してみよう。「白い馬は白ですか」。答えは来週に・・。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年9月21日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。

デプン寺ロセルリン学堂コヲ・カンツェン夜間の問答法会


チベット仏教の雑学(その2) 白い馬は白でない

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 僧院の教義問答で、最初によく与えられる課題を、先週紹介した。「白い馬は白か」。これを考えるヒントは、「白い馬」と「白」が、諸存在の分類法の中でどの範疇に属するかという点にある。「白」は、視覚の対象(色処)なので、物質的な要素(色蘊)に属する。一方「白い馬」は、生き物なので、物質でも心でもない存在(心不相応行)に属する。色蘊と心不相応行に共通項はないので、「白い馬は白でない」というのが正解だ。
 このように、世間の常識と少しズレのある話を、若い僧侶たちが大真面目で議論しているから、周囲で聞いている一般の人たちも大笑いとなる。問答には、確実な知識や鋭い論理が不可欠だけれど、ユーモアのセンスも結構大切である。
 さて、諸存在の分類に続いて扱うテーマは、認識する心の分析だ。仏教の認識論によれば、正確な認識には、直感(現量)と推論(比量)の二種類がある。また、不正確な認識には、再認識・憶測・疑問・誤解などがあるという。
 しかし、これらの用語の意味は、日常会話と少しニュアンスが違う。例えば、「勘で当てる」などという場合、それはほとんど直感認識にならない。良くて憶測か疑問、悪ければ誤解である。
 私みたいな凡人の場合、直感認識と呼べるのは、眼前に置かれた瓶の形や色を知覚するなど、ごく単純なものに限られる。だから、仏陀の深遠な教えを理解するには、まず推論認識に頼らなければならない。チベットの僧侶たちは、この推論認識を磨くため、問答を繰り返しているのだ。
 ところで、日常生活でよくある「うわのそら」という状態。これを、仏教の認識論では、どう説明しているのだろうか。来週また考えてみよう。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年9月28日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。


チベット仏教の雑学(その3) “うわの空”の認識論

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 「うわのそら」という心の状態をどう理解すべきかは、チベット仏教の認識論で問題となる点だ。一般的には、「顕われても認識しない」という独特の心の状態があると説明している。そして、前回触れた直感・推論・再認識・憶測・疑問・誤解にこれを加え、認識する心の在り方を七種類に分類・整理している。
 顕われても認識しない状態の実例としては、心が形や色に奪われているときの聴覚などがあげられる。男女二人が電車に乗っているとき、男性が新聞記事に夢中になり、いくら女性が話しかけてもうわのそら・・・。日常よく目にする光景だ。
 ところがある学説では、そうした状態が特別に存在しないと主張している。話の内容を理解しているか否かは別として、少なくとも何か聞こえるなら直感認識としての聴覚は成立し、何も聞こえないなら成立していない。この両者のどちらかであり、中間的な状態は認められないというのだ。
 さきほどの男女に登場してもらおう。「ちょっと、あなた、聞いているの」。「うん…」。「じゃあ、私が話したこと、言ってみて」。こんなとき男性は、女性が前に話した内容を理解していなくても、音声として女性の言葉を断片的に記憶し、鵡返し答えたりする。これは、聴覚が成立している場合だ。
 「聞いているの」と強い調子で問われたとき、寝耳に水のように驚くかもしれない。これは、それまで聴覚が成立していなかった場合だろう。
 誰でも身に覚えのありそうな事例だが、その際の心の働きを分析してゆくと、なかなか奥が深い。「顕われても認識しない」という心の状態が特別に存在するか否かは、「正確な認識」の定義とも密接に関連し、仏教認識論の重要な課題なのだ。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年10月5日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。


チベット仏教の雑学(その4) ドルジェさんは・・・

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 入門した僧侶たちが学習する課程として、諸存在の分類、認識する心の分析などを、先週までに紹介した。その次に取り組むべきテーマは、論理学の基礎である。これは、正確な推論認識(比量)を確立するのに大切な要素で、教義問答の枠組みを習得するためにも不可欠だ。ごく単純な分かりやすい例を使って、その一端を垣間見てみよう。
 「ドルジェさんは人間である。なぜなら、チベット人であるから」。この主張命題が正確な推論認識として認められるためには、三つの条件を満たす必要がある。第一は、ドルジェさんがチベット人であること。第二は、 「チベット人であれば、必ず人間である」という必然関係が既に承認されていること。第三は「人間でなければ、決してチベット人ではない」という関係が既に承認されていること。これらのうち、第二と第三の条件は、同じ中身の裏返しだ。
 さて、今もし私がこの主張命題を否定したいと思ったら、三つの条件のどれか一つを崩さなければならない。僧侶たちの問答では、第一の条件を崩すとき「論拠不成立」、第二や第三の条件を崩すとき「必然的でない」と述べ、それぞれ理由を提示する。
 例えば、「論拠不成立。なぜなら、ドルジェさんがチベット人であるとは、必ずしも言えない。彼は去年、日本に帰化したのだから」という反論が成立する状況なら、第一の条件は崩れる。これで一応主張命題は否定されるが、日本人でも結論として「人間である」点に変わりはないから、問答の相手は論拠を修正して同じ結論を主張できる。
 そこで次に、「必然的でない」という面から、この主張命題の否定に挑戦してみよう。果たして、第二・第三の条件を崩すことは、可能だろうか。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年10月12日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。


チベット仏教の雑学(その5) 「定義の学問」として

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 「ドルジェさんは人間である。なぜなら、チベット人であるから」。僧院の教義問答で、相手がこう主張したとしよう。
 この命題を否定するため、「チベット人であれば、必ず人間である」という必然関係を崩せないだろうか。
 もし崩せたら、「必然的でない」と述べて応酬することは、先週説明したと思う。
 常識的に考えれば、「チベット人」という狭い概念は、「人間」という広い概念に完全に包括されてしまう。従って、「必然的でない」と答えることはできない。
 でも、少し冗談まじりに考えれば、あながち不可能でもなくなる。「必然的でない。なぜなら、人間ではない“チベット人„が存在するからだ。チベット民族は猿と鬼女の子孫だ…という伝説があるではないか」と答えてやったらどうだろうか。ドルジェさん自身は、猿や鬼女でなくても、そのような例が一つ存在するだけで、必然関係は成立しなくなる。これが問答の面白さだ。
 ここで重要になってくるのが、「何をもってチベット人とするか」という点である。つまり、問答で使う用語には、明確な定義が付与されていなければならない。修行僧たちは、問答を通じて、仏教用語の定義を正しく理解してゆく。それゆえ、こうした学習のやり方は、「定義の学問」と呼ばれている。
 いま仮に、チベット人を「チベット人である父を持つ者」と定義し、人間を「六道輪廻の衆生で、人間の身体を持つ者」と定義してみよう。そうすると、高位の転生活仏は、「人間でないチベット人」の実例となる。なぜなら、彼らはチベット人の父を持つけれど、六道輪廻を越えた仏の化身だと信じられているからだ。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年10月19日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。


チベット仏教の雑学(その6) 日本と変わらない精神

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 入門した僧侶たちが問答を通じて学習する課程の一端を、先週まで紹介してきた。諸存在の分類、認識する心の分析、論理学の基礎など。「仏教と直接関係なさそうな内容ばかり勉強して、ただ理屈っぽくなるだけじゃないか・・・」と心配したくもなるけれど、こうした基本があってこそ、高度な仏教思想を徹底的に極められるのだ。特に、二番目の認識論は、密教の実践という面でも欠かせない。これを学んでいるか否かで、瞑想体験の深さに大きな差が出てくるからだ。
 数年間を費して基本の学習を終えると、いよいよ僧侶たちは、本格的な仏教哲学に取り組むことになる。そこで中心となるテーマは、「般若学」と「中観学」だ。前者は、覚りへ至る実践の段階を説く修道論で、『大般若経』の隠れた義とされている。後者は、諸存在の真理を説く空性と縁起の思想で、『大般若経』の明らかな義とされている。
 この点からも分かるように、チベット仏教の思想的な核心は、『大般若経』に求めることができる。そして、この『大般若経』の心髄を凝縮して説いた経典が、日本でも馴染み深い『般若心経』である。チベット仏教には、ユニークな特色が数多く見られるけれど、根本的な精神は日本の伝統仏教と変わらない。まさに『般若心経』こそ、この両者を結びつける鍵なのだ。
 さて、僧侶たちが「般若学」の課程で学ぶ内容は、実に広い範囲に及ぶ。その一例を、垣間見てみよう。覚りへ至る道には、凡夫・聖者の菩薩・仏陀という三段階がある。いわば、スタート・折り返し地点・ゴールのようなものだ。それでは、この三段階の心の認識能力には、どのような差異があるだろうか。来週の検討課題としよう。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年10月25日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。


チベット仏教の雑学(その7) 一切智の境地目指し

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 覚りへ至る道のスタート・折り返し地点・ゴールに相当するのが、凡夫・聖者の菩薩・仏陀という三段階だ。それぞれの心の認識能力には、どのような差異があるのか、少し検討してみよう。
 いま、目の前に瓶が置かれているとする。その瓶には、当然だが、色彩や形状がある。しかし、それらは、瓶の究極的な本質ではない。「ならば、一体何が瓶の究極的な本質だろうか」と追求しても、結局何も得られない。これを、瓶の空性という。『般若心経』が説く「色即是空」の簡単な実例だ。
 さて、私のような凡夫の場合、瓶の色や形は直感で認識できる。しかし、瓶の空性については、仏教哲学を勉強すれば推論で認識できるけれど、決して直感では認識できない。
 一方、聖者の菩薩は、深い瞑想に入ったとき、瓶の空性を、まるで目で見るかのように直感認識できるという。ところがそのとき、瓶の色や形は見えなくなってしまう。そして瞑想を終えた後は、逆に色や形は見えても、空性は直感認識の対象から消えてしまう。
 しかし、仏陀の段階に至ると、常に瓶の空性を直感認識しつつ、同時に色や形も認識できる。これが、あらゆる認識対象を直感で正しく知り尽くす「一切智」の境地なのだ。
 この簡単な事例から、仏道修行の仕組みを理解できる。まず、推論認識によって、空性を正しく知る。そして、瞑想を繰り返すことにより、それを直観認識に変える。さらに瞑想を深め、最終的に一切智へ到達する。
 しかし、瞑想に熟達することは、心を高めて一切智へ至る手段に過ぎない。そして、一切智といえども、それ自体が究極の目的ではない。だとすれば、一体何が最も大切なのだろうか。

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年11月2日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。


チベット仏教の雑学(その8) 一切智の先にあるもの

齋藤 保高(さいとう やすたか)/チベット仏教普及協会事務局長

 瞑想は、心を高めて仏陀の一切智へ到達する手段にすぎない。そして、一切智といえども、それ自体が究極の目的ではない。では、何が最も大切なのかといえば、あらゆる手だてを巡らして一切衆生を救うことだ。こうした立場は、『大日経』が説く「方便究竟」として日本でも有名だが、チベットの僧院教育では徹底して強調される。
 そして、覚りへの道を歩む最初から最後まで、常にその原動力として絶対に欠かせないのが、大慈悲である。例えば、瞑想に熟達して慢心し、他者に対する思いやりの心を微塵も持っていない行者と、他方瞑想など実践したこともないけれど、いつも分け隔てのない優しい心を持っている牧夫を比べてみよう。この二人のうち、後者の方が遥かに仏陀の境地へ近づいた存在であることは、全く疑う余地もない。
 チベット仏教は、非常に優れた瞑想の実践体系を誇る宗教だ。それだけに、前者の類の修行者を育ててしまわないため、僧院教育の課程に強力な防止機能が組み込まれている。それが、『大般若経』の行間を慈悲の側面から読み込む修道論、つまり「般若学」である。
 僧侶たちは、これを数年間に渡り学んでから、『大般若経』の思想を智慧の側面から徹底検証する「中観学」の段階へ進む。そして、般若学と中観学を通じて学んだ内容を、実際に速やかに体得する優れた手段として、密教を本格的に学び実践するのである。
 中観や密教の段階まで来ると、もう「雑学」では手に負えないから、この辺で一旦筆を置くことにしよう。こうした正統派のチベット仏教を、日本国内で学習・実践するため、私どもの団体では様々なプログラムを実施している。関心のある方は、是非お問合せを。 

※ 本稿は、『仏教タイムス』紙2000年11月9日号1面に掲載された記事と同内容の文章を、仏教タイムス社の御了承を得て再掲載したものです。但し、今回の分だけ、サブタイトルを付け替えています。



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