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密教と本覚思想

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密教と本覚思想

 「曼荼羅とは何か」のページの内容を踏まえたうえで、基体位・道位・果位の枠組みを、チベット密教の立場から整理してみましょう。基体位とは、輪廻の衆生の自然な状態です。道位とは、修行によって輪廻の苦を克服してゆくプロセスです。果位とは、修道の結果で得られる仏陀の境地です。

 下記の1~3が果位、4~7が基体位、8~14が道位、15が果位に相当します。道位のうち、8~10は因位からの道(顕密共通の道)、11~14は果位を先取りした道(密教独特の道)と位置づけられます。

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1.曼荼羅は、仏陀自身が御覧になった世界、つまり果位の在り方です(詳しくは、「曼荼羅とは何か」のページ参照)。

2.それはどこか別の世界にあるわけではなく、まさに私たちのこの世界を仏陀が御覧になればそのように見える・・・ということにほかなりません。

3.仏陀の智慧は完全無欠ですから、本当はそのような見え方こそが一番正しいはずです。

4.しかし、私のような凡俗の衆生は、煩悩障と所知障によって心が汚れきっているため、そのような見え方を体験することは全然できません。

5.それゆえ衆生は、自分たちの世界を、輪廻という苦しみの連鎖として体験せざるを得ない状態にあります。これが、衆生自身にとっての真実、つまり基体位の在り方です。

6.のみならず、大多数の衆生は、輪廻の本質を苦だと見抜くことさえできません。これは、基体位の在り方すら理解していない状態です。

7.しかし、仏法を聴聞して考察するならば、輪廻の本質が苦である点、及びその原因が煩悩である点を、正しく理解して納得できるはずです。

8.自分がそのように心底納得したら、出離と菩提心を発して、自ら仏陀の境地を目指すべきです。なぜなら、自分や他の衆生にとって現実に存在する苦を完全に止滅させるためには、それしか方法がないからです。
 「仏陀にとっては、上記1~3のとおりである」という事実を衆生が知ったところで、それだけでは、自分たち自身に於て現実に存在する苦を何一つ根本的に解決できません。

9.仏陀の境地を得るためには、道を修行しなければなりません。功徳を積み、空性を直観的に覚る智慧を獲得し、それによって自己の煩悩障と所知障を順に断滅する必要があります。

10.顕教の大乗仏教は、仏陀の境地へ至るまでに、三阿僧祇劫という非常に長い期間を要します。これは、因位の立場から道を修行し、果位を目指すやり方です。必要な功徳があまりにも膨大なため、このやり方では、途方もなく時間がかかってしまいます。
 菩提心は、「衆生のために仏陀の境地を得よう」と誓願して修道する心です。衆生の苦しみを本当に真剣に考えるならば、修道の時間を何とか短縮しなければなりません。そのような強い願いから、密教の道へ入るべきです。

11.密教ならば、修道の期間を大巾に短縮できます。というのは、果位を先取りして曼荼羅を瞑想する本尊ヨーガを修習するからです。このような本尊ヨーガを繰り返すことにより、現実にはまだ凡俗の衆生であるにもかかわらず、意識の面では果位を体験している状態になります。

12.そのような意識の状態で道(六波羅蜜)を修行することにより、速やかに膨大な功徳を積めます。なぜなら、同じ善行(布施など)であっても、それを実行するときの意識の状態で、功徳の多寡に大きな差異があるからです。

13.さらにその意識の状態で、密教の止観によって空性を修習するなら(般若波羅蜜)、速やかに煩悩障と所知障を断滅できます。
 11~13は、密教一般に共通する考え方で、果位と行相を一致させて道を修行するものです。11と12は有相瑜伽や生起次第、13は無相瑜伽や究竟次第に相当するプロセスです。

14.無上瑜伽タントラの場合、上記に加えて、三身修道、チャクラ・脉管・風・滴の瑜伽、楽空無差別の智慧、光明・幻身の現前など、優れた手段が豊富に揃っています。そのため、より速やかに膨大な功徳を積み、煩悩障や所知障をそれぞれ一気に断滅できます。これは、果位と行相を一致させるとともに、基体位の死・中有・生とも行相を一致させ、それらを巧みに利用して道を修行するというやり方です。

15.顕教の大乗、密教一般、無上瑜伽タントラのいずれにせよ、煩悩障と所知障を残らず断滅したとき、仏陀の境地を得ることになります。その瞬間、自分自身にとっても、果位の世界が完全に現実のものとして成立します。

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 基体位・道位・果位に関する以上の論考は、密教と本覚思想との関連を検証するうえで参考になるかもしれません。また、しばしば本覚思想と結びつけて語られる修道不要論について、その過失を明らかにできるでしょう。

 まず上記1~3のように、「本覚」ということ自体は、密教の立場からも是認されると思います。しかし、修道が不要だということには、決してなりません。

 本覚思想に基づく修道不要論というのは、ごく簡単にいえば、上記の4と5を一応承認しつつ、「本当は1~3なのだ」と気づくことによって、4と5を克服できる・・・という考え方ではないかと思います。

 しかし、気づいただけで4と5を克服することはできません。なぜなら、4と5を克服するためには、煩悩障と所知障を種子から残らず断滅しなければならないからです。

 気づいただけで克服したように感じるというならば、それは本当のところ、6の状態に陥っていることになるでしょう。実際には6の状態と同じなのに、「気づいたことで4と5を克服した」と思い込んでいるから、7を受け入れる余地がありません。そうすると、8以降へ進む道は閉ざされてしまいます。

 7~9は、四諦の枠組みです。8と9は、大乗の文脈から表現しています。お釈迦様が初転法輪で四諦をお説きになったことに象徴されるとおり、まさに四諦こそが、あらゆる仏道修行の在り方を規定する根本的な枠組みです。密教とて、その点は何ら変わりありません。四諦の原点に立ち返って考えれば、修道不要論という誤りへ陥ることは決してないでしょう。

 けれども四諦を顧みないと、いろいろ間違った方向へ進んでしまいます。例えば、「本当は1~3なのだ」と気づくことによって、4と5を克服できる・・・という修道不要論の立場から、「気づくための手段」として密教を実践しようという考え方もあるようです。

 その場合、5からいきなり11へ入るような流れになります。そして、11を実践したことにより、意識の面で果位を体験している状態へ至り、それをもって「成仏」と位置づけることになります。しかしもちろん、それはまだ成仏ではありません。

 7~10を経て11へ入った場合は、そのような誤りへ陥ることなく12以降へ進み、最終的に本当の仏陀の境地へ到達できるはずです。特に13の必要性について、宗祖ツォンカパ大師は、『真言道次第広論(ガクリム・チェンモ)』第二品で「輪廻の根本たる我執を絶つ道も未だ得ていないので〈中略〉空性を修習するべきだ」と明確にお説きになっています。その中で「未だ・・」というのは、文脈上、11や12の段階を指しておっしゃっています。

 本覚思想のもう一つの重要なファクターである仏性(如来蔵)について、チベット仏教の立場では、「衆生の心の空性」と位置づけます。つまり、衆生の心は煩悩等で汚れているけれど、そのような在り方が堅固な実体性として決定されているわけではないので、修道によって煩悩障と所知障を断じてゆけば、いかなる衆生も仏陀の境地へ到達できる・・・という意味です。「本来清浄」というのも、そのような意味で解釈します。修道の効果を保証するものでこそあれ、修道が不要だという根拠には決してなりません。

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