ギュトゥー寺での密教学修3B
さて翌日は、まず午前中に、ギュトゥー寺に於けるもう一人の恩師、ゲン・ゲドゥン・ツェリン大阿闍梨の御自房へ、御挨拶に上がりました。前回2015年の訪問時には、ゲン・ゲドゥン師から、今回と同じ「成就法広本儀軌」の行法を教わっています。そのときは、供養の供え方、手印の結び方、真言の誦え方、その他様々な所作や観想内容など、事相面を中心に指導していただきました。ゲン・ゲドゥン師は、「ギュトゥー寺の流儀の事相を習うなら、この大阿闍梨以上の師僧は誰もいない」と言われている事相の第一人者です。2014年の訪問時に、ゲシェー・ノルサン師を紹介してくださったのも、この大阿闍梨です。今回、ゲシェーから成就法の教相面と究竟次第の教えを受けることになったと御報告すると、大阿闍梨は大変お喜びになり励ましてくださいました。
大阿闍梨ゲン・ゲドゥン・ツェリン師(御自房にて)
恩師への御挨拶を済ませたら、あとは夜の伝授まで時間があります。とりあえず宿坊の自室で、「成就法広本儀軌」の予習をします。前にゲン・ゲドゥン師から習った儀軌だから内容は分かっているのですが、この儀軌は毎日実修しているわけではないため、もう一度よく精読しておかなければいけません。それに今回は教相面の伝授なので、同じパンチェン・ラマ一世による「生起次第解説書」も、併せて参照する必要があります。この解説書は、飛行機の中やデリーのホテルでもある程度読み込んできたから、儀軌との併読がスムーズにできて助かりました。
儀軌にしても解説書にしても、内容的に区切りの付く箇所にはスラッシュを入れ、欄外にその箇所のテーマを記入しておくと便利です。そうすると、併読するときにも分かりやすいし、伝授を受ける際に該当箇所を素早く見つけられまます。やり方は人それぞれでよいけれど、とにかくテキストに手を加えて自分用にカスタマイズし、テキスト全体の構造を把握したうえで、中身に慣れ親しんでゆくことが大切です。伝授のときは、短い時間に集中して、数多くのこと習得しなければなりません。それをいかに有効なものにするかは、事前の予習の充実度にかかっています。だから、たとえ以前に読んだり学んだことのあるテキストでも、伝授の直前によく精読し、自分の心をそのテキストの中身の世界へ没頭させる必要があるのです。換言すると、教わる内容に関して、ラマとやり取りをできる土俵へ、自分自身も上がっておかなければならないということです。ラマへ質問したい疑問点も、まずは予習の段階でピックアップして整理し、伝授のときにタイミングよくお尋ねできるようにメモしておくと便利です。
パンチェンラマ一世編「ルーイーパ流チャクラサンヴァラ成就法広本儀軌」
さて、ひととおり予習を終えて夕食の後、雨が降り出しました。8月はモンスーンで、基本的に雨ばかりです。ところがこの日は、昼間から雲が低く垂れこめて今にも降りそうな雰囲気なのに、なかなか雨になりませんでした。そして日が暮れる頃、目一杯溜めていたエネルギーを一気にぶちまけるように、非常に激しい雷雨になったのです。持参した折りたたみ傘ではズブ濡れになってしまいそうだから、出かける直前に1階の売店へ行き、僧侶たちがよく使っている頑丈な特大の傘を急遽購入しました。ゲシェー・ノルサン師の御自房はけっこう遠いので、暗くなってから豪雨の中を歩いて行くのは、なかなか大変です。
そんなわけで、初日から思わぬ苦労を強いられましたが、伝授そのものは順調に始まりました。今回は教相面が中心だから、トルマ儀軌などは省き、成就法本体の実践理論を三日間で教えていただきました。外曼荼羅と身曼荼羅の関係性などについて、ギュトゥー寺の一部に伝わる独特な解釈がある点など、なかなか興味深い内容を学ぶことができたと思います。
一回の伝授が終わったら、すぐに宿坊の自室へ戻り、教わった内容を復習します。特に、質問に対するお答えや、自分の全然知らなかった内容などは、伝授の場でテキストやノートやに要点を走り書きしてあるので、それを自室ですぐに書き直します。これは、やりとりを鮮明に覚えているうちに、全て終わらせなければいけません。そんなとき、「伝授は生ものだなぁ」とつくづく感じます。ラマとのやりとり自体が生の体験だし、その体験の鮮度が保たれている間に、内容を整理して記録しておく必要があります。だから、直後の復習というのは、とても大切なプロセスなのです。もちろん、伝授の一部始終は、全て録音してあります。しかし、後日いくら録音を聴いても、伝授直後の生々しく鮮明な記憶は甦ってきません。
こうして予習・復習に努力すれば、伝授の場に於けるラマとのやり取りも、それなりに充実したものとなります。ゲシェー・ノルサン師は、私の様子をさりげなく観察なさり、「ここはよく分かっていないな」とお感じになると、質問を投げかけたり、補足説明を与えくださいます。そういえば、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師も、弟子の理解不足を見抜く独特の勘の鋭さがありました。ゲシェーはリンポチェの愛弟子だから、指導法にも師僧譲りのものがあるような気がします。とにかく、弟子の側が予習・復習を怠っていたら、あらゆる箇所が理解不足だらけの状態なので、ラマの御指導がいかに素晴らしくても、大方無駄になってしまいます。ですから私も、鈍根なりに少しでも精進し、せっかくいただいた伝授の貴重な機会を生かせるよう、予習・復習にできるだけ努力しなければいけないわけです。
ゲシェー・ララムパ・ケートゥプ・ノルサン師(御自房にて)
伝授の予習は、宿坊の自室だけでなく、図書館の閲覧室で行なうこともできます。図書館は、本堂へ向かって左手前の建物の2階にあります。開架式で辞書類が置いてあるから、それらを参照して勉強することも可能です。チベット語の仏教文献はかなり豊富に揃っているので、自分の勉強しているテキストに引用されている経軌を参照したいときなど、スタッフにお願いすれば探してもらえます。部分コピーの依頼も可能です。なお、この閲覧室には、「グヒヤサマージャ立体曼荼羅」が安置されており、間近に拝観することができます。
図書館に安置されているグヒヤサマージャ立体曼荼羅(2015年8月に撮影)
ギュトゥー寺の図書館では、テキストの出版も積極的に手がけています。密教を中心に様々な分野の典籍を校訂して電算入力し、引用先などを記した脚註を付け、チベット語の洋装本(B5版ぐらいのサイズ)の叢書「サンチェン・ギュトゥー」シリーズとして2011年から順次刊行しています。vol.1はケートゥプ・ジェの「密教総説」など、vo.2はジェツン・トゥプテン・ヤルペルの「三大本尊親近行法」など、vol.3はアク・シェーラプ・ギャツォの「三大本尊二次第解説」、vol.4はケートゥプ・ジェの「秘密集会生起次第解説」、vol.5は宗祖ツォンカパ大師の「五次第明灯」、vol.6はヨンズィン・イェシェー・ギェルツェンの「上師供養解説」、vol.7はパンチェン・ラマ一世の手鑑集、vol.8はパンチェン・ラマ一世などの密教修道論集、vol.9はダライ・ラマ二世の「文殊ナーマサンギーティ解説」、vol.10はツォンカパ大師などの三大本尊成就法・曼荼羅儀軌集、vol.11はゲン・サムテン・タルチンなどの三昧耶形画集、vol.12はケートゥプ・ノルサン・ギャツォの「秘密集会二次第解説」、vol.13は開山クンガ・トゥントゥプの「秘密集会タントラ註釈」、vol.14はパンチェン・スーナム・タクパの「秘密集会二次第解説」などとなっています。
これらとは別規格で、小さい洋装本(A5版ぐらいのサイズ)の叢書「ラモチェ」シリーズもあります。vol.1は「秘密集会」経軌集、vol.2は三昧耶戒など律儀関係の経軌集です。こうした諸典籍の校訂作業を指導しているのも、ゲシェー・ノルサン師です。図書館で出版した洋装本のテキストは、山門の外にある書店で購入できます。
書店の内部。真ん中から右側の書棚に並べてあるのが「サンチェン・ギュトゥー」シリーズ。
またギュトゥー寺には、伝統的な長版の経巻(ペリン)の全集「魅惑の宝珠の瓔珞」があり、主に密教を中心とした典籍が収録されています。前述した洋装本の叢書は、ギュトゥー寺らしいカラーが出てはいるけれど、わりとゲルク派全体で重視されているテキストが多いと思われます。それに比べ、このペリンの全集には、ギュトゥー寺の流儀に基づく独特の典籍も数多く含まれています。この全集についても、図書館で校訂作業と電算入力を進め、ペリンの体裁で新しく刊行しています。こちらは非売品のため、簡単には入手できません。しかし、三大本尊の成就法や二次第解説は是非欲しいので、寺務所の執事や図書館長に何度も頼み込み、訪問するごとに旧版や新版を少しづつ頒けていただいています。このページの上の方に載せた「成就法広本儀軌」の経巻は、今回やっと手に入った新版です。また、すぐ下の「究竟次第解説」の経巻は、2014年の訪問時に頒けていただいた新版です。
とにかく、ギュトゥー寺図書館で出版している図書や経巻は、自分にとって大変魅力的なものばかりだから、ついつい買いすぎてしまいます。毎度のことながら、購入した図書や頂戴した経巻は相当な分量にのぼり、帰りの荷物が非常に重くなるのは避けられません。往復で荷物の量が違いすぎると、いざ帰る段になって困ることになりますから、往路は自分の著書や「ポタラ・カレッジ叢書」を持参し、ギュトゥー寺の図書館などへ寄贈するようにしています。
ツォンカパ大師造『ルーイーパ流チャクラサンヴァラ究竟次第 大瑜伽教導次第の要略』
さて肝心の伝授の方は、三日間で生起次第を終えてから、いよいよ今回の正行と位置づけられる「究竟次第解説」へ入りました。前にも述べたように、テキストはツォンカパ大師の『瑜伽自在者ルーイーパ流チャクラサンヴァラ究竟次第 大瑜伽教導次第の要略』rnal 'byor dbang phyug luipa'i lugs kyi bde mchog gi rdzogs rim/ rnal 'byor chen po'i 'khrid kyi rim pa mdor bsdus pa/です。これは、「ツォンカパ大師全集」の秘教集gaung bka' rgya maに収録されています。同じく秘教集にある『瑜伽自在者ルーイーパ流チャクラサンヴァラ究竟次第解説 悉地の穂』rdzogs rim gyi rnam bshad/ dngos grub snye ma/の内容から、議論などを省いて要点だけ記した短い典籍です。
前述のギュトゥー寺に伝わるペリンの全集「魅惑の宝珠の瓔珞」では、第三巻(ga pa)の中に、「ギュトゥー寺のイェルパ道場に於ける不共の伝授、三大本尊の究竟次第秘教集」dpal ldan stod rgyud grwa tshang gi yer pa'i khris kjang du thun mong ma yin pa'i 'chad nyan/ gsang bde 'jigs gsum gyi rdzogs rim bka' rga ma/と銘打った教科書がまとめられています。チベット本土に於けるギュトゥー寺は、聖都ラサの旧市街中心部にある古刹ラモチェ寺の境内に設置された密教学堂ですが、集中的な親近行(ニェンパ)などは、市街地の喧騒を離れて山中の道場で実修していたといいます。三大本尊究竟次第の伝授も、山中の道場に少人数を集め、秘密裏に授けられたそうです。今日でもそれらの伝授は、境内の奥にある親近行道場(ツァムカン)で、少人数を対象に行なっているようです。この「秘教集」に収録されているのは、その際に用いる教科書で、「チャクラサンヴァラ」は『大瑜伽教導次第の要略』が入っています。
テキストの表紙。「ギュトゥー寺のイェルパ道場に於ける不共の伝授、瑜伽自在者ルーイーパ流チャクラサンヴァラの究竟次第 大瑜伽教導次第の要略」と書いてあります。
ゲシェー・ノルサン師は、『大瑜伽教導次第の要略』の阿含相伝(ルン)を持っていらっしゃるので、ルンと解説を交えながら伝授していただくことになりました。ルンというのは、典籍に説かれている語句(阿含)自体を、ラマが音読して弟子が聴聞するということで、著者自身から連綿と師資相承されてきた流れです。これが無いと伝授にならないというわけではありませんが、やはり加持力を伴う伝統の重みがあるので、できればルンとともに解説していただいた方が望ましいことは言うまでもありません。
実は生起次第の伝授の途中、身曼荼羅のあたりで感じたのですが、伝授の様子は録音だけでなくビデオにも撮っておいた方が、後からずっと分かりやすいです。ゲン・ゲドゥン大阿闍梨から教わるときは、事相中心の伝授で手印や所作も多いため、ほとんど全て録画してあります。しかし、ゲシェー・ノルサン師のときは教相面が中心だから、今までは録画していませんでした。けれど実際には、身振り手振りを伴って説明してくださることも多く、伝授の最中はそれを見て分かったはずなのに、後で録音だけを聴いてもよく分からない・・というケースがときどきあります。幸いビデオカメラと三脚は今回も持参していたので、究竟次第に入ってからは、伝授の一部始終を録画させていただくことになりました。究竟次第の伝授には、チャクラや脉管など身体と密接に関連する説明も多いため、映像で記録したのは大正解だと思います。
究竟次第の具体的な中身について、ここで詳細に書くことはできませんが、無上瑜伽タントラを学んでいる方ならば、「グヒヤサマージャ」聖者流との対比を通じ、大まかなニュアンスを把握できると思います。聖者流の場合は、風の瑜伽である金剛念誦が主な行法となり、身体に於て心を集中する一番の要点は胸のチャクラです。それに対し「チャクラサンヴァラ」ルーイーパ流は、チャンダリー(内なる火)の燃焼と溶融した滴の下降・上昇による四歓喜が主な行法で、心を集中する一番の要点は臍のチャクラになります。両方の流儀とも、それらを主とする幾つかの手段を組み合わせて段階的に修行した結果、光明と幻身を実現することになります。そこから先の過程は、言葉遣いが多少異なるとしても、内容的には両流儀とも同じです。
ゲシェー・ノルサン師は、今回のテキストである『大瑜伽教導次第の要略』について、ルーイーパ流の究竟次第を非常に明確に説き明かした稀有な典籍だとおっしゃっていました。ただ、とても簡潔に要点をまとめた内容だけに、広本である『悉地の穂』を参照した方がよさそうな箇所も幾つかありました。なので、これから両方のテキストを対照して読み込み、次の機会に不明な点をお尋ねできれぱと思っています。
前にも書いたように、ゲシェー・ノルサン師は、昼間に図書館棟で『安立次第解説』の講伝をなさっているため、私への伝授は原則として夜に行なわれました。しかし講伝が休みの日など、私への教えを午前中になさってくださったこともあります。そんな日は、夜に時間的余裕があるため、僧侶たちの問答の修行を見学できました。問答は、主に夜間、本堂の前の広い境内で行なわれています。本堂に一番近い場所では、三大本山から密教を学修しに来たゲシェーたちによる密教学の問答が見られます。般若学や中観学など顕教の問答ならば、ここよりも三大本山の方がずっと盛大に行なわれていますが、密教学の問答はギュトゥー寺ならではのものです(密教学の問答を撮影した映像を御覧いただけます。ここをクリックしてください。facebookにアップした動画が、別ウィンドウで開きます。ログインしていなくても閲覧できます。もし、ログインやアカウント登録を促す画面がかぶさって出て来たら、「後で」をクリックすれば消えるはずです)。
ギュトゥー寺に居る僧侶たちの大半は、三大本山から来たゲシェーではなく、最初からギュトゥー寺へ入門した生え抜きの僧侶たちです。彼らは、ギュトゥー寺で仏教論理学、般若学、中眼学などを顕密共通の道として学修し、それらに関する問答も行なっています。しかし、生え抜きの僧侶たちにとって一番の課題は、密教の経軌を暗誦し、声明や曼荼羅をはじめ、密教の様々な修法を習得することです。三大本山でもギュトゥー寺でも、修行中の僧侶たちには暗誦試験、問答試験、筆記試験が課されますが(三大本山の暗誦試験は、顕教哲学の論書)、若い僧侶たちの心情として、三大本山では問答に、ここでは暗誦に比重が置かれているように思われます。伽藍のあちこちで、密教経軌を暗誦したり声明を練習する僧侶達の真摯な声が、早朝から夜遅くまで響いており、そうした光景こそ密教専修道場たるギュトゥー寺の風物詩といえるでしょう。
図書館棟の3階で行なわれていた暗誦試験
(続く)
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