ポタラ・カレッジ齋藤保高の個人サイトです。チベット仏教の伝統教学について、質の高い情報を提供します。

チベット仏教の歴史と特色

FrontPage

チベット仏教の歴史と特色

ポタラ宮



チベット人と宗教

 チベットについて何か考えたり語ったりするとき、宗教のことに触れなかったら、それは決して十分なものとなり得ない。チベット人と宗教とは切っても切れない仲であり、これほど宗教が重要な役割りを演じ続けてきた国家や社会は、世界の中でもあまり類例がないだろう。

 しかも、その宗教の内容たるや、極めて充実していて、非常に高度なものである。科学技術の発達した現代社会に於て、その価値は失われるどころか、一層輝きを増しているように思われる。世界各地でチベット仏教への関心が高まっているという事実は、この点を雄弁に物語っている。

 「人類の貴重な財産であるチベット仏教の伝統を守り伝え、それをさらに発展させてゆくことこそ、自分たちに課された神聖な使命だ。チベットの国家や民族は、そのために存在してきたのであり、もし仏教が亡びてしまったら、一体何の意味があるのか・・」。これは、大多数のチベット人が抱いている国家観・民族意識だ。チベットは、その国土が「世界の屋根」と形容される高原地帯に広がっているのと同様、アジア内陸部の歴史を通じて宗教的な高みに自らの身を置き、不可侵の聖域として君臨し続けてきた。そのような自負があればこそ、五十年に渡る亡命生活を余儀なくされても、チベット人たちは民族のアイデンティティーを守り抜いてこられたのだ。

五つの宗派

 チベットの宗教には、五つの主要な宗派がある。その中の一つは、チベット独特の民族宗教であり、ポン教という。日本でいえば、神道のようなものである。ただ、チベットでは仏教の影響力が非常に強かったため、今日残っているポン教は、思想面や実践面で仏教化の度合いが大きいともいわれている。

 五つの宗派の残り四つは、ニンマ派、カギュー派、サキャ派、ゲルク派といい、いずれもインド伝来の仏教である。その中で最大勢力は、一番新しく成立したゲルク派だ。僧侶の人数でいえば、圧倒的多数を占めている。

 これら五つの宗派全体の頂点に立っているのが、ダライ・ラマ法王である。法王の立場は、特定の宗派に属することなく、五つの宗派の超越的な最高指導者と位置づけられている。その下に、例えばゲルク派ならガンデン座主というように、各宗派の管長が名を連ねているのだ。

 ところで、チベットの仏教のことを称して、しばしば「ラマ教」という場合がある。チベット語で「ラマ」とは、宗教上の指導者の意味だ。チベットの伝統では、何よりもまず師僧を尊重するので、その点からは「ラマ教」という呼び名も間違いではないだろう。しかしそれでは、仏教と異なった別の宗教であるかのような印象を免れないので、チベット人たちはそう呼ばれることを好まない。

 そこで次に、チベットの宗教事情を概観するため、その歴史を簡単に紐解いてみよう。といっても、ポン教に関しては不明な点が多いので、これ以後は仏教の四宗派についてだけ述べることにする。

チベットへの仏教伝来

 チベットへの仏教の初伝は、三世紀前半とされているけれど、伝説の域を出るものではない。史実として確かなのは、七世紀前半、ソンツェン・ガムポ王のときである。この名君のもとで、チベットの国力は急速に拡充し、最盛期の唐朝をも脅かす存在となった。そのようなチベットと友好関係を結ぶため、ネパールのブリクティー王女と唐の文成公主が、ソンツェン・ガムポ王のもとへ嫁いだ。彼女たちは、それぞれ本国から仏像を持参してきたので、これらを安置するため、ラサの都にラモチェ寺とトゥルナン寺(チョカン寺)が建立されたという。王は、仏教の十善戒に基づく十六箇条の勅令を定めたが、これは聖徳太子の「十七条憲法」と似たような性格のもといえるだろう。その後チベットの古代王国では、重臣たちが崇仏派と排仏派に分かれて、激しく対立するようになった。日本の飛鳥時代に、蘇我氏と物部氏が争ったのと、事情は大体同じようなものといえるだろう。

 この対立に決着をつけ、インドから本格的に仏教を導入したのが、八世紀後半の名君ティソン・デツェン王である。王は、当時のインド仏教界を代表する一流の学僧を招聘したいと願い、大本山ナーランダ寺の長老シャーンタラクシタに白羽の矢を立てた。ところが、いざそれを実行する段になると、様々な災いが起こったといわれている。「チベットの土着の神々の怒りに触れた」という恐れから人心は動揺し、仏教導入の気運も雲ゆきが怪しくなってくる。それを鎮めるため、王はシャーンタラクシタの助言に従い、密教の第一人者として名高いグル・パドマサンバヴァを招いた。すると、密教の絶大な法力により、荒ぶる神々も改心して三宝に帰依し、「これからは仏教を守護する」と固く誓ったという。そのようにして、目に見えない障害も悉く取り除かれた後で、王はサムイェーという場所に大きな僧院を建立した。この僧院を本拠地として、シャーンタラクシタをはじめとするインドの学僧たちが指導にあたり、チベット人による仏教の学習と実践が本格的に開始されたのだのである。

 以後数十年、歴代の王は仏教を厚く信仰し、国家をあげて仏典の翻訳に取り組んだ。その結果、ごく短期間に膨大な「チベット大蔵経」の大部分を完成させるという、奇跡のような偉業が成し遂げられたのだ。

古代王国の崩壊と仏教の復興

 ソンツェン・ガムポやティソン・デツェンとともに「仏法を守護した三人の英主」と並び称されるレルパチェン王が、九世紀中頃に暗殺されたことを契機として、隆盛を誇っていたチベットの古代王国は脆くも崩壊してしまう。その結果、仏教界も大きな痛手を被り、一世紀以上に渡る暗黒時代の到来をみる。けれどもその間に、仏教の信仰は民衆の間へ広まり、好戦的で勇猛果敢なチベット人たちは、平和を愛する心優しい民族へ変貌していったという。

 こうして草の根のレベルで継承されてきた仏教は、やがて復興運動の時代を迎え、リンチェン・サンポなどの訳経師たちが活躍するようになる。十一世紀中頃には、インド仏教の総本山ヴィクラマシーラ寺からアティーシャという名僧を招き、その指導によってチベットの仏教は見事に再生を遂げた。アティーシャは、それまで様々に伝えられていた教えを整理して、小乗・大乗・密教という三重構造の実践体系にまとめあげた。これを「ラムリム」といい、以後のチベット仏教界の主潮流となる。この時代には、マルパ訳経師のように、チベット側からインドへ赴く留学生も数多くあり、最新の仏教思想や後期密教の流れが次々とチベットへもたらされた。

インド仏教の滅亡と継承

 ところがこの時期、仏教の本家インドでは、ヒンドゥー教の伸長とともに仏教は衰退の一途を辿っている。そしてさらに、イスラム教勢力の侵入をみるに及び、遂に十三世紀の初頭、ヴィクラマシーラ寺の破壊をもってインド仏教の法灯は途絶えてしまう。ヴィクラマシーラ寺の最後の座主となったシャーキャシュリーバドラは、この法難を逃れてチベットへ入り、大切に守り伝えてきた教えの全てをチベットの僧侶たちに託した。

 仏教の初伝以来五百有余年、チベット人たちがひたすら師と仰ぎ憧れてきたインド仏教は、その故郷で居場所を失い、ヒマラヤを越えてチベット高原に安住の地を求めたのだ。かくしてチベット仏教は、インド仏教の本流をそのまま継承すべく運命づけられたのである。

仏教四宗派の成立

 十一世紀の復興運動によって再出発し、チベットの仏教界が発展してゆく過程で、前述の四つの宗派が形成された。

 仏教初伝以来の古い伝統を忠実に受け継ぐ宗派を「ニンマ派」といい、その教義は十四世紀中頃の学僧ロンチェンパによって集大成された。ニンマ派の主な僧院としては、中央チベットのミンドゥルリン寺とドルジェタク寺、カム地方のカトク寺、シチェン寺、ゾクチェン寺などがあげられる。

 これに対し、中興の祖師アティーシャの教えに従う宗派を「カダム派」という。カダム派では、インドから新しい仏教哲学を積極的に導入し、ラサ近郊のサンプ寺などを中心に研鑽を重ね、チベット仏教の思想的な発展に寄与した。また、中央チベットのラデン寺などで、新伝来のインド後期密教に基づいた実践修行も盛んになったという。

 十四世紀後半、チベット仏教史を大きく塗り替えた偉大な祖師ツォンカパが出現する。ツォンカパは、カダム派の「ラムリム」の流れを継承し、仏教のあらゆる教えを矛盾なく再構成し、顕教と密教の両面に渡る教理・実践の一大体系をまとめあげた。それによってチベット仏教は、思想哲学の面でも実践修行の面でも、極めて充実した内容を具えるに至ったのだ。このツォンカパの教えに従う宗派を「ゲルク派」といい、従来のカダム派もゲルク派に合流する形となった。チベットで有名なダライ・ラマとパンチェン・ラマの二大転生活仏は、いずれもツォンカパの弟子の生まれ代わりとされている。ゲルク派の主な僧院としては、ラサ近郊に建立されたガンデン寺、セラ寺、デプン寺の三大本山をはじめ、シガツェのタシールンポ寺、アムド地方のクンブム寺やラプラン・タシーキル寺などが有名だ。また、最高格式の密教道場として、ギュメー寺とギュトゥー寺がある。

 インドへ留学したマルパのもたらした教えに従う宗派を「カギュー派」という。マルパの弟子ミラレーパは、チベット仏教随一の聖者として親しまれている。カギュー派の教義は、十二世紀前半、ミラレーパの弟子ダクポ・ラジェによってまとめられた。その後カギュー派は多くの分派に分かれ、カルマ派、ティグン派、ドゥク派などが今日でも勢力を保っている。カギュー派の主な僧院としては、ツルプ寺(カルマ派)、ティグン寺(ティグン派)、ラルン寺(ドゥク派)などがあげられる。

 在家密教行者の氏族教団として出発し、サチェン・クンガ・ニンポによって確立された宗派を「サキャ派」という。その後継者サキャ・パンディタは、前述のシャーキャシュリーバドラに師事して多くの教えを学び、教義を集大成した。以来サキャ派からは、カダム派やゲルク派と並んで、数多くの学僧が輩出するようになった。サキャ派の主な僧院としては、サキャ寺、ゴル寺などがある。

国際宗教への道

 チベット仏教が順調に発展しつつあった十三世紀の中頃、思いもよらぬ国難が降りかかった。世界史上類例のない大帝国となったモンゴルが、チベットを襲ったのである。当時のチベットは、政治的に分裂した状態が続いていたので、強大なモンゴルに太刀打ちできるはずもない。そこで、サキャ・パンディタが国の代表としてモンゴルの陣営に赴き、困難な和平交渉にあたった。ところがその過程で、サキャ・パンディタは、モンゴル人たちを仏教に改宗させてしまう。軍事的には屈服せざるを得なかったチベットが、宗教面では逆にモンゴル側を教化したのである。これによって、チベットの国土が蹂躙される危機は救われた。サキャ・パンディタの甥パクパは、モンゴル(元朝)皇帝フビライ・ハーンの師僧となり、以後モンゴルの宮廷にチベット仏教が普及するようになってゆく。

 時代は下って十六世紀の後半、デプン寺の活仏スーナム・ギャツォは、モンゴル・トゥメト部の首長アルタン・ハーンの勧請を受けて説法に赴き、「ダライ・ラマ」の称号を献じられた。このスーナム・ギャツォから二代遡り、ツォンカパの甥で弟子でもあるゲドゥン・トゥプパを初代とするダライ・ラマ転生活仏制度が、このとき実際に確立されたのだ。

 アルタン・ハーンの帰依を契機に、チベット仏教は、モンゴル人社会で急速な広がりをみせ始める。スーナム・ギャツォの転生者であるダライ・ラマ四世がモンゴル人から出たのも、一つの象徴的な出来事だろう。このようにして、東アジアの内陸部から中央アジアの広範な地域で、チベット仏教の信仰が盛んに行なわれるようになった。

 そして十七世紀中頃、ダライ・ラマ五世の時代に、チベット全土の政治と宗教の最高指導者としてダライ・ラマ法王を戴く国家体制が確立される。チベットは、宗教国家としての装いも新たに、再びその全土を統一する中央政権を打ち立てたのである。

 それと同じ頃、満州の清朝が急速に勢力を拡大し、中国を含む東アジアの広範な地域を領有する大帝国に成長した。清朝の歴代皇帝は、チベット仏教に帰依してダライ・ラマとパンチェン・ラマを厚く敬ったので、チベット仏教は北京にまで広められ、さながら「アジア大陸随一の国際宗教」という観さえ呈するようになる。

 このような最盛期には、モンゴル、北京、熱河など、チベット国外にも数多くのチベット仏教寺院が建立された。そして、十七世紀から十八世紀にかけて、ジャムヤン・シェーパやチャンキャ・ルルペー・ドルジェなど優れた学僧が次々と輩出し、国際的な活躍を繰り広げてゆく。「チベット大蔵経」の木版印刷も開始され、北京版、ナルタン版、デルゲ版などが十八世紀に刊行された。

ダライ・ラマ法王の亡命

 ところが十九世紀に入ると、チベットの政治と宗教の両面で、停滞状況が著しくなる。それまでチベットに富と繁栄をもたらしていたシステムが、急速に機能しなくなってきたからだ。十九世紀末に親政を開始したダライ・ラマ十三世法王は、そうした事態を打開するため、国家の近代化を急いだ。しかし、チベットを取り巻く国際情勢は、それを遥かに上回るスピードで急展開し、やがて未曾有の悲劇の幕が切って落とされることになる。

 第二次世界大戦の後、隣の中国で国共内戦に勝利した共産党の人民解放軍が、怒涛の如くチベットへ侵攻してきた。ダライ・ラマ十四世法王は、事態を平和的に解決しようと懸命の努力を重ねたものの、圧倒的な軍事力を背景とする中国側の強硬姿勢の前に、全ては空しい結果となってしまう。そして一九五九年、流血の事態の拡大を防ぐため、法王は国外亡命を余儀なくされ、ヒマラヤを越えてインドへ向かったのだ。

インドでの再起

 一九五九年にダライ・ラマ法王がインドへ亡命すると、約十万人のチベット人がその後に続いた。これは、「チベット仏教の伝統を自由の地で守り伝え、他日を期そう」という悲願を込めた逃避行である。法王は、インド北部ヒマチャルプラデシュ州のダラムサラに仮宮殿を置き、チベット亡命政府を樹立した。また、インド南部カルナタカ州の数箇所で大規模なチベット人難民入植地が開かれ、一九七〇年代になってから、その中にガンデン寺、セラ寺、デプン寺という三大本山が再建されている。こうして、チベット仏教の本流は、インドの亡命チベット人社会で受け継がれたのだ。遥か昔のチベット人たちが、仏陀の教えを求めて憧れたインド・・。その地へ、このような形で仏教の流れが戻って来るとは、何と皮肉な巡りあわせだろうか。

 中国の支配下にあるチベット本土では、宗教活動が制約されており、仏教を本格的に学んだり修行できる環境ではない。そのため、現在でも毎年千人以上の規模で、僧侶や尼僧、出家を志す若者たちが、生命の危険を冒してヒマラヤを越え、インドの亡命チベット人社会へ殺到している。その結果、いずれも数千人規模の僧侶を擁する南インドの三大本山は、さらに人数が膨れ上がり、台所事情は火の車だという。慣れない酷暑の中、粗末で狭い僧坊に大勢が寝泊まりする生活環境は、受忍の限度を遥かに越えている。しかも、チベット本土から単身で亡命して来た人たちは、休息のために帰る家すらない。それでも僧侶たちは、チベット仏教の法統を守り抜くという使命感に燃え、ひたすら仏道修行に励んでいる。

 今やインドの亡命チベット人社会は、チベット仏教という人類の貴重な財産を守るための、「最後の砦」の役割りを果たしている。かつてチベット仏教圏だったモンゴル系民族の居住地域は、今世紀になって大半が共産主義の支配下に置かれ、仏教は長年に渡り抑圧の憂き目にあってきた。けれども、ソ連の崩壊によってこうした地域の多くが自由化されると、人々の信仰心は一気に燃えあがった。モンゴルや、ロシアのブリヤート、トゥバ、カルムイクからは、熱心な留学僧たちが南インドに長期滞在し、デプン寺などで修行に励んでいる。また、亡命チベット人社会からも、これらの地域へ師僧を派遣しているという。こうした宗教交流を通じ、かつての広範なチベット仏教圏が、少しづつ甦ろうとしている。

南インドに再建された大本山デプン寺総本堂


チベット仏教の特色

 そこで次に、こうした歴史的な背景を踏まえたうえで、チベット仏教の特色を明らかにするため、日本の伝統仏教との簡単な比較を試みてみよう。といっても、両者とも釈尊の説いた教えに基づく正しい仏教である点に違いはないのだから、その根本は同じであり、それぞれの道を極めた聖者たちの究極的境地には何の隔たりもないはずだ。しかし、一般的な見地からすれば、思想哲学や実践修行の面に於て、チベット仏教は我が国の仏教とかなり異なった様相を呈している。それを、ごく大まかに整理してみよう。

1.チベット仏教は、インド仏教の流れを直接受け継いでいる。サンスクリットの原典を、漢文のお経よりも正確に翻訳し、思想哲学や実践修行の面でも、インド仏教の伝統を忠実に踏襲している。

2.チベット仏教には、中国や日本へ伝わっていない重要な教えが幾つかある。中でも、最高の見解である中観帰謬論証派、及び最奥義の実践である無上瑜伽タントラの両者を伝える点は、チベット仏教の最大の特長といえるだろう。

3.仏教には、一見相互に矛盾するような教えがある。例えば、小乗・大乗・密教の関係なども、表面的には互いに相容れないものだろう。しかしチベット仏教では、「ラムリム」の伝統に基づいて、仏教のあらゆる教えを整合性ある一大体系にまとめあげ、実践の指針を提示している。

4.釈尊は弟子たちに対し、各自でよく考えて教えの中身を吟味し、その後で初めて教えを信奉するように強調したという(註)。チベット仏教では、釈尊のこうした考え方に従い、盲信や実践至上主義を排し、明解な論理による思考を重視している。

 これらの特色をよく考えれば、チベット仏教の本質は、決してチベット人固有のものではなく、広い普遍性をもっているという点が理解できるだろう。チベット仏教の教えは、人類の全てに開かれているといっても過言ではない。世界の各地で、その特色を知って関心を寄せる人々が、自ら教えを学んで実践することにより、チベット仏教は人種や民族や文化の枠を越え、「人間の心を向上させる」という本来の使命を果たすのである。

チベット仏教の教理と実践

 日本の伝統仏教各派には、それぞれ所依経典というものがある。例えば、真言宗なら『大日経』と『金剛頂経』、浄土系の宗派なら「浄土三部経」である。それでは、チベット仏教の所依経典は何かと尋ねられると、これは少し困ってしまう。チベット仏教の場合、あらゆる仏典を一つも捨てることなく尊重し、それらを整合性ある一大体系にまとめて実践するというのが建前だ。つまり、「チベット大蔵経」全体が所依経典ということになる。しかしもちろん、実際には、特に中心となる経典が確かにある。

 思想哲学の中心となるのは、何といっても「般若経」だろう。「般若経」は、膨大な経典群の総称だけれど、その心髄は『般若心経』としてまとめられている。これは、日本でも、非常に馴染み深いお経だ。「般若経」の思想をもとに説かれたナーガールジュナ(龍樹)の『中論』、 チャンドラキールティ(月称)の『入中論』、弥勒菩薩の『現観荘厳論』などは、チベットの僧院で学習する中心課題となっている。

 『中論』と『入中論』は、空と縁起の哲学を説いている。ごく大雑把にいえば、「空」とは、あらゆる存在に実体がないことであり、「縁起」とは、そのように実体を伴わぬものが他に依存して成立することだ。私たちの世界は、全て縁起によって成立し、その本当のあり方は空にほかならない。こうした真理を深く学び、瞑想を通じて体得することにより、貪欲・怒り・無知などの煩悩を減らしてゆくというのが、智慧の面での仏道修行だ。

 一方『現観荘厳論』は、凡夫から仏陀の覚りへ至るまでの修道論を説いている。修道論の中心となるのは、菩提心である。「菩提心」とは、生きとし生けるもの全てを救うために、自ら仏陀の覚りを得ようと誓願し、そのために修行に入ろうとすることだ。慈悲の心を育み、それによって菩提心を起こし、その志を実現するために、布施などの利他行や瞑想を積み重ねてゆくというのが、実践面での仏道修行である。

 チベット仏教の瞑想は、対象に心を集中するための「止」と、教えを分析して心に慣れ親しませるための「観」とに分けられる。この両者を組み合わせて併用することが大切であり、どちらか一方が欠けると正しい修行にならない。「無念無想」のまま座っているだけというのでは、心を集中する対象もないし、教えを分析することにもならないので、チベット仏教ではそのようなものを正しい瞑想とは認めていない。まして、好き勝手に心地よい空想に耽ったり、神秘的な幻覚に自己満足するような行為は、およそ仏道修行とは無縁のものである。

 チベット仏教では、「般若経」を顕教の中心思想と位置づけているが、密教もその思想に基づいて実践すべきだと考えている。なぜなら、密教とは、顕教によって説かれた教えを速やかに実現するための優れた方便にほかならず、そうした立場を離れて修行したら邪道に堕ちてしまうからだ。

 密教の最奥義として重視される聖典は、ゲルク派の場合、『グヒヤサマージャ』である。これに「ヤマーンタカ」と「チャクラサンヴァラ」を加え、無上瑜伽タントラの中でも特に深遠な教えと位置づけている。その他では、『カーラチャクラ』が重要な聖典だ。これは、世界平和への祈りが込められているので、ダライ・ラマ法王は各地で積極的に『カーラチャクラ』の大灌頂を開いている。

 「灌頂」とは、本尊と仏縁を結び、祝福を授け、修行法を伝授し、実践の許可を与るという、そのような趣旨が込められた密教の儀式だ。密教の瞑想を修行するためには、正しいラマから灌頂を受けることが、絶対に不可欠な条件とされている。

 密教の瞑想は、本尊ヨーガといい、前述の止と観の要素をともに含んでいる。「本尊ヨーガ」とは、瞑想の中で、自己と本尊とを一体化させる、或は自分自身を本尊として生まれ変わらせることだ。この本尊ヨーガと、前に述べた空に対する正しい理解とを組み合わせるならば、仏の覚りへ至る道を速やかに進むことができる。

 無上瑜伽タントラの特色の一つとして、人間の死と中有と生を修行の過程に組み込んでいる点があげられる。これは、日常の瞑想修行でも体験できるし、実際に臨終を迎えたときにも役に立つ。熟練した密教行者にとって、死は覚りへの絶好の機会であり、そのような場合、死の恐怖は完全に克服されているはずだ。もちろん、普通はなかなかそこまで至らないけれど、それでも各人の理解や境地に合わせて、チベット仏教は死への対処法を数多く用意している。

 チベット人のお年寄りたちの生活を垣間見ると、望ましい形で安らかな臨終を迎えるために、仏道修行を通じて心を高める努力を続けていることがよく分かる。こうした点は、日本で高齢化社会や生き甲斐といった問題を考える場合、非常に示唆に富んでいるのではなかろうか。いわゆる「葬式仏教」ではなく、もっと積極的に人生や死と取り組む仏教の姿を、チベット人社会の中に見いだすことができる。

 大乗仏教の目的は、心を無限に向上させてゆき、最終的には仏の覚りへ到達することだ。「心を向上させる」というのは、瞑想修行に熟達することではない。それは、心の向上のための手段にすぎない。本当の意味は、究極の真理である空を理解し体得すること、そして広大な慈悲の心を育んでゆくことだ。それが完全無欠に円満成就したとき、仏の覚りの境地が実現するのである。従って、チベット仏教を一言で表現するならば、それは「智慧と慈悲の教え」ということになる。


(註)カマラシーラ『摂真実義・難義釈(タットヴァサングラハ・パンジカー)』de kho na nyid bsdus pa'i dka' 'grel(Toh.4267)、「〔現量と比量の二者を量として設定する〕この点は世尊もお認めになっていることであり、すなわち是の如く“比丘や諸賢者らが、焼いて切って磨くことをもって金の〔真贋を調べる〕如く、観察し尽くしたときに私の教えを受け入れるべきだが、尊敬のゆえに〔受け入れるべき〕ではない”とおっしゃっているとおりだ」。

※ 本稿は、齋藤保高がチベットハウス広報担当のときに執筆した文章をもとにして、大巾に加筆・修正を加えたものです。

◎ ゲルク派宗祖ツォンカパ大師以降の歴史について、さらに詳しくお読みになりたい方は、密教21フォーラムのサイト「エンサイクロメディア空海」に掲載されている拙稿チベット仏教の歴史とダライ・ラマ法王を御参照ください。←クリックすると別ウィンドウで開きます。

◎ 日本の伝統仏教と比較したチベット仏教の特色について、さらに詳しくお読みになりたい方は、拙著『チベット密教 修行の設計図』第二章(pp.17-25)を御覧ください。



このページの始めへ戻る  トップページへ

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional