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ヤマーンタカ親近行6

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 こうして護摩壇などの準備も全て整ったので、親近行に入って13日めにあたる10月18日に、付加行として護摩を厳修することになりました。この日は、朝5時前に起床です。道場に閼伽をお供えして、5時半から広作法の儀軌で成就法を修習します。トルマ供養と総収斂まで全て行ない、7時過ぎに結行しました。それから2階で朝食です。

 今回厳修する護摩行は、ヤマーンタカ一尊を本尊とする息災法の三段護摩です。儀軌は、先々代のリン・リンポチェによるものを用います。実際に護摩を焚く行は、親近行を結願した私自身が行なわなければいけません。しかし、護摩の法儀には、やるべきことが数多くあります。行者が一人で全て行なうのは、なかなか困難です。それで今回は、経頭をチャンパ・リンポチェがお務めくださることになりました。これは大変心強く、本当に素晴らしいことです。さらに職衆として、ツェリン・サムトゥプ師がリンポチェを補助し、ゲシェー・パーヲ師が私を補助し、ツェリンさんの弟やシェーラプ師、イェシェー・ペーマ師が資具などを準備する役目になりました。

 まず、リンポチェとツェリン師とパーヲ師と私の四人は、ヤマーンタカ一尊の我生起を行なう必要があります。それで朝食後に、ラダン2階の勤行堂に集まり、成就法を広作法の儀軌で厳修しました。リンポチェと一緒に成就法を行じられるのは、とても感動的なことです。今まで毎日実修してきた儀軌だから、リンポチェたちに合わせて読誦するのも、それほど難しくはありません。

我生起の修法。左はゲシェー・パーヲ師;シェーラプ師撮影

 護方神と眷属衆にトルマを供養する箇所まで行じ、総収斂は行なわずに座を立ちます。我生起を保持したまま、これから護摩行に入るためです。


 いよいよ、護摩の修法です。皆でラダンの庭へ行き、私とパーヲ師が護摩壇の東(実際の方角ではなく、曼荼羅上の方位)に着座します。

護摩の修法;シェーラプ師撮影

 リンポチェは、ツェリンさんとともに、反対側の少し離れた場所へお座りになります(上の写真では手前)。既にツェリンさんの弟やシェーラプさんたちが、台の上に資具を並べるなど、護摩の準備を整えています。

護摩資具;シェーラプ師撮影

 上の写真は、向かって左の一列が火天の資具、右の二列が本尊の資具です。本尊に捧げる資具の方が、それぞれの分量が多くなっています。火天の資具は、手前から乳木、黒胡麻、芝、米、酪とツァンパ、吉祥草(仏器と仏器の間にある草)、白芥子、籾付きの大麦、大麦、豆、小麦、殊勝なる資具(幾つかの穀物に栴檀やチャムパカなどを混ぜたもの)。本尊の資具も同じ内容です(この時点では、一部順番が違っています)。

準備の整った護摩壇;シェーラプ師撮影

 護摩壇の炉曼荼羅の上には、大きな護摩木を積み上げます。物理的な面からいえば、この薪のような護摩木が主な燃焼物となって強い火力を維持し、燃えにくい資具なども全て燃やしてしまうわけです。

 既に我生起は済んでいるので、すぐ護摩行に入ります。最初は、前行です。まず、金剛と鈴を加持します。今から護摩を結行するまで、行者は右手に金剛杵と左手に金剛鈴を持ち続けなければいけません。これは、護摩行の独特の三昧耶です。資具を炉へ投じるときなど、金剛杵を落としてしまう恐れがあるため、金剛杵は右手に縛りつけます。左手の鈴は、縛らなくても大丈夫です。次に、火天の供物と資具を順に加持します。それから、点火棒を加持して炉へ投じ、壇上へ積み上げられた護摩木に火をつけます。炎を扇ぎ、蘇油(バター油)を注いで、火勢が増すようにします。このとき、一気に火が燃え上がり、実に爽快な気分です。炉に吉祥草を置いて、火天の座とします。ここまでが、前行です。

大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師とツェリン・サムトゥプ師;シェーラプ師撮影

 次は、正行のうち、世間火天段です。まず炉と火天父母尊を生起し、智尊を勧請して供養します。護摩行の供養では、洒水・洗顔水・漱口水・洗足水の四水を捧げる箇所がたくさん出て来ます。そのとき、法螺貝の水を仏器に注ぐ所作があり、結構複雑で面倒です。今回は、それをリンポチェが引き受けてくださったから、私は印明を結誦するだけで済みました。チベット仏教の寺院で厳修される護摩の写真などを見ても、大抵はそのように役割り分担しているようです。こうして火天の智尊を召入してから、礼賛偈を誦えて三昧耶を託します。

蘇油の供養;シェーラプ師撮影

 それから、護摩杓で蘇油を炉に注ぎます。前回紹介した円杓と方杓です。円杓は右手、方杓は左手で持ちます。方杓は相当な重量ですが、行者の前方に炎よけの壁(今回は、コルゲート板で代用)があります。ちょうどその上に方杓の柄を置くと、重さを感じずに済みます。ツェリンさんが「大丈夫。全然問題ないです」と言っていたのは、このことです。

乳木の供養;シェーラプ師撮影

 次に、乳木を炉へ投じます。まだ湿っているけれど、蘇油を注いだ直後で火勢が強いため、簡単に燃えてしまいます。再び蘇油を注いでから、黒胡麻を投じます。胡麻は油を含んでいるため、バチバチと音を立てて勢いよく燃えます。物凄い迫力です。続いて、芝、米、酪とツァンパ、吉祥草、白芥子、籾付きの大麦、大麦、豆、小麦などを順に投じます。いずれも、火天の真言と願文を誦えながら、それらの資具を火天に捧げると思念して、燃えさかる炉の中へ投じてゆきます。最後に、洗顔水と洒水を供養して、世間火天段は成就です。

 その次は、出世間本尊段で、護摩行の中心となる部分です。まず、本尊の供物と資具を加持します。続いて、本尊の生起です。既に我生起は済ませているので、ここでは、護摩供養の賓客となるヤマーンタカ一尊の曼荼羅を、炉の火天の胸に生起します。修習する内容は、楼閣の生起から礼賛までで、大方は我生起の広作法に於ける該当箇所と同じです。その後、蘇油を注いでから、乳木を投じます。世間火天段のときより本数がずっと多いため、湿っている乳木から物凄い煙が発生します。でも、火勢が強いから、あっという間に燃えてしまったようです。続いて、蘇油、黒胡麻以下、世間火天段と同様の順で投じます。今回は、「フィーティー」の真言と願文を誦えながら、それらの資具を本尊へ捧げると思念します。

 この護摩行は息災法なので、願文の趣旨は、基本的に「修行の障礙を消除する」ということです。ただ、それぞれの資具ごとに特別な願意が付加されており、例えば「財貨の円満に対する障礙を消除する」という場合などは、事実上増益法に近い趣旨にもなるでしょう。それも、単なる現世利益ではなく、「それによって財施ができるように」と願うことが大切です。いずれにしても、今回は親近行の付加行だから、「親近行に於ける三昧の不明確、真言の不浄、儀軌の過不足などの罪過を消除する」ということが、最大の願意になります。一連の資具を炉に投じ終えたら、さらに何種類かの供養と礼賛を捧げ、過不足を浄治して賓客の本尊を撥遣します。これで、出世間本尊段は成就です。

 最後は、世間火天後段です。本尊が去った炉に火天が残っているので、まず何種類かの供養を捧げてから、前のときと同様に乳木以下の諸資具を順に炉へ投じてゆきます。火天の真言と願文を誦える点も、初段と同じです。それらを終えたら、礼賛や供養などを捧げ、事業を委託し、過不足を浄治して火天を撥遣します。普通なら、この後で我生起の収斂次第を行なう必要があるけれど、今回は午後に自灌頂を行じるため、我生起を維持したまま座を立ちます。リンポチェにお礼の御挨拶をすると、「よく燃えたね」とおっしゃってくださいました。

 ここまでで、親近行として必要な中身は全て満願したことになります。これにより、弟子へ灌頂を授けることをはじめ、自灌頂、開眼、曼荼羅建立の導師など、金剛阿闍梨としての事業を行なえるようになります。「金剛阿闍梨」に関しては、最近わが国で変な話がいろいろ起きていますが、全く馬鹿馬鹿しい無意味なことです。密教の阿闍梨としての資格は、「金剛阿闍梨灌頂を受法したうえで、親近行を満願する」という客観的事実によって成立します。高僧から認定されるという性質のものではありません。このことは、タントラやインドの聖者たちの教えに説かれており、勝手に解釈できる余地はありません。だから、最近の変な話を否定するために「ゲルク派では、出家してゲシェー位を取得しなければ、密教の阿闍梨になれない」などと語られていることも、本当は正しくないわけです。

 いずせれにせよ、親近行の円満というのは、あくまで密教の阿闍梨としての最低要件です。私のような鈍根の行者の場合、これからが本格的な修行だと心得るべきでしょう。親近行を終えたことにより、護摩や自灌頂など様々な修法を行なえるようになるので、それらや曼荼羅儀軌などをよく学んで実践を積み重ねることが肝要です。ただ、そうした諸々の儀軌の根本となるのは、やはり成就法です。だから、成就法の実修に精進を重ねることが、最も大切だといえるでしょう。成就法の結行時に究竟次第を信解作意で行じ、その成果をまた次の成就法に生かしてゆく・・・という実践のやり方は、とても効果的だと思います。究竟次第を本格的に修行できるのは、生起次第が完全に堅固になった後です。けれども、生起次第の成就法をメインとしつつ、必要性に応じて少しづつ究竟次第を修行することは、初心行者の段階から可能です。この点は、ツォンカパ大師の『真言道次第広論(ガクリム・チェンモ)』第十一品などにも説かれています。


 とにかく、護摩行を無事に成就できて、ひと安心です。1階の食堂に皆で集まって昼食となりましたが、私は久しぶりに、リラックスして食事を楽しむことができました。しかしまだ、やることが残っています。午後2時半から、2階の勤行堂で自灌頂があります。前に述べたように、親近行として必要な中身は、護摩までです。自灌頂は、親近行を円満したことによって実践可能になる修法の一つで、親近行の必須要件ではありません。ただ、今後自分で自灌頂を実践するためには、要点の指導を受けておかなければなりません。それをリンポチェにお願いしたところ、「まず一緒に修法しよう」とおっしゃってくださり、護摩行の後に自灌頂を厳修することになったわけです。

 自灌頂bdag 'jugとは、自分で自分に灌頂を授けること、換言すれば阿闍梨として自分が開いた曼荼羅に自ら入壇することです。例えば、弟子に灌頂を授けるとき、阿闍梨はその直前に必ず自灌頂を修法しなければなりません。これは、三昧耶戒を受け直して浄化することが主目的です。それと同様、弟子に灌頂を授ける場合でなくても、自灌頂を修法することにより、三昧耶戒の根本罪に関する違越を浄化できます。

 今回の自灌頂は、リンポチェが経頭をお務めになり、ツェリン・サムトゥプ師とゲシェー・パーヲ師と私の計四人で修法します。本来ならば、最初に我生起を行なわなければなりませんが、朝に済ませているので必要ありません。それで、瓶生起を行なってから、すぐ自灌頂に入ります。儀軌の流れは、大灌頂の正行とほぼ同じです。五部の瓶灌頂、金剛阿闍梨灌頂、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂などの要素は、自灌頂にも全部揃っています。阿闍梨と弟子の二役を一人でこなさなければいけないから、結構忙しいです(笑)。戸惑う箇所もありましたが、隣に座っているパーヲ師が親切に指導してくださったお蔭で、特に問題なく修法できました。最後に曼荼羅供養を捧げ、リンポチェとパーヲ師とツェリン師にお礼の御挨拶をしました。これで、親近行に関連する一連の修行は、完全に円満成就したことになります。

自灌頂で曼荼羅供養を修法する大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師とツェリン師 

 こうしたことも全て、大阿闍梨チャンパ・リンポチェ師の広大無辺な御恩のお蔭です。それとともに、シェーラプ師、イェシェー・ペーマ師、ツェリン・サムトゥプ師、ゲシェー・パーヲ師、ツェリン師の弟さんなど、修行を助けてくださった僧侶の方々のお蔭です。心から感謝を捧げたいと思います。また、自分の仕事が多忙な時期に修行の機会を得られたのは、ポタラ・カレッジの先生方や会員ボランティアの方のお蔭にほかなりません。こうした様々な方々の御助力によって、初めて親近行を満願することができたわけです。夢にも、自分の力だなどと思ってはいけません。せっかく修行したのに、凡俗の慢心が増大したのでは意味がありませんから、謙虚な気持ちを常に心がけたいと思います。


 10月19日からは、久しぶりに外出できます。ちょっと嬉しいですね(笑)。ロセルリン学堂の書店で買い物をしたり、総本山ガンデン寺を参拝したり、何人かの友人を訪ねたりしました。外国からの訪問者が普通に行なうことを、帰国間際に急いでやったという感じです。ゴマン学堂の書店では、モンゴルの国師ロサン・ルントゥプによる「ヤマーンタカ二次第の解説」のペチャを入手できました。これは、ちょっとした収穫です。

 20日の午前は、ロセルリン新本堂へお参りに行き、内陣と護法堂で成満御礼の祈りを捧げました。午後は、自灌頂についてリンポチェに質問をお伺いし、要点を簡単に御指導いただきました。所作の面では、金剛阿闍梨灌頂に関連する印の結び方などを教わりました。

 21日に帰り支度を整え、22日の朝にデプン寺を出発です。リンポチェに御挨拶し、「また参りますから、是非お元気でいらっしゃってください」と申し上げました。シェーラプさんにフブリ空港まで送っていただき、復路はフブリ→ムンバイ→デリーという経路で帰国の途につきました。別れ際、シェーラプさんが「トゥクジェ・チェ(有難う)」と言って、私の首にカタをかけてくれました。とりわけシェーラプさんに関しては、「有難う」はまさに私の側の台詞なので、一瞬面くらってワケの分からない返事をしながら握手して別れたのを覚えています。


 これで大体は、今回の親近行にについて、お話ししたいことを書き終えたと思います。もしかすると、お読みくださった方々が一番知りたいのは、「そのように親近行を満願したことで、どんな成果があったか?」ということかもしれません。正直に申し上げると、「これこれの素晴らしい成果を得た」という実感は、残念ながらありません。しかしだからといって、「僅かな日数の修行で、成果などあるはずない」というような、開き直った物言いをしてはいけないと思います。そういう発想は、あまりにも短絡的すぎます。たとえ短い期間でも、今回の親近行は、インド-チベットの密教の伝統に則した方法で実修したものです。それも、密教事相の大家である大阿闍梨チャンパ・リンポチェの御指導を受けながらです。そのような条件が揃って、成果の無いはずがありません。必ず大きな成果があったと、私は信じています。ただ、今それを私が実感できないのは、自分自身の能力の低さと怠惰のせいです。

 だから、これからが本格的な修行なのだと、私は思っています。いかに鈍根の私でも、今回の親近行で毎日成就法を修習した結果、行法に慣れることだけはできました。ツォンカパ大師も『真言道次第広論』第十二品で、生起次第の目的である本尊の明確な顕現と慢を確立するためには、まず慣れて習熟することだ・・・という趣旨の教えを、仏教論理学の『量評釈』まで引用して強調なさっています。だから、地道に成就法の修行を重ねて習熟度を増してゆけば、やがて本尊の明確な顕現と慢を確立し、凡俗の顕現と執着を遮断できるようになるはずです。そのような状態で無上瑜伽タントラの止観を修行すれば、生起次第に堪能になって、究竟次第を本格的に実践できるようになります。そこまでゆけば、目指すべき本尊=仏陀の境地は、手の届くところに見えてくるはずです。

トルマを護摩壇でお焚きあげするシェーラプ師

 自灌頂まで全ての修法が円満成就した夜、リンポチェとツェリンさんが丹精込めて作ったトルマも、護摩壇の残り火でお焚きあげします。この火は、二昼夜ほど暖かさを保ち続け、最後には完全に灰となりました。

最後まで読んでくださって、有難うございます!

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