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ヤマーンタカ親近行4

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 行に入って2日めと3日めで、「アラパツァ」の文殊真言と「ヤマーンタカ」の七字真言を一万返づつ念誦し終えたので、4日めからは「フィーティー」の十字真言の念誦に入ります。これは、親近行の一番中心となる念誦で、十万返と付加一万返の合計十一万返を数えなければなりません。普段この真言を誦えるときは、十音節ほどですから、別に長いとは感じないでしょう。しかし、親近行としてまとまった回数を念誦する場合、「アラパツァ」や「ヤマーンタカ」より多少字数が多い分だけ、余分に時間を要してしまいます。つまり、3日めまでのような時間配分では、一日一万返の念誦も難しいことになるわけです。そのため、朝の座は30分ほど早く、8時から始めてみました。結行は今までどおり、10時45分です。それで、2,500返ほど数えられました。昼の座は、1時過ぎから4時45分までで5,000返。夜の座は、6時過ぎから9時半近くまでかかって4,500返。一日の合計で、12,000返を数えることができました。しかしこのペースでは、帰国日から逆算し、日数的に多少不安があります。夜のお茶のとき、リンポチェに念誦回数を報告し、「明日は、もう少し多く誦えられるようにします」と申し上げました。ただ、この日の時間配分でもかなり目一杯だったので、あまり自信はありません。するとシェーラプさんが、「口が慣れてくれば、一日15,000返は出来るんじゃないか」と励ましてくれました。

 そこで5日めは、昼の座の開始時間を12時半に前倒しし、一日の合計で何とか14,000返を念誦しました。6日めは、同じ時間配分で、シェーラプさんの言うとおり、15,000返を達成できました。累計で、41,000返です。あと四日間このペースで続けられれば、十万返を成就できる計算です。しかし、この6日めの時間配分は、かなりきついです。一日三座の合計時間は、10時間を超えています。起床から就寝まで、ほとんど余裕がありません。朝の座と昼の座の間は1時間半以上ありますが、昼食と入浴・洗濯などでギリギリです。心身ともに、疲労感が蓄積されてきます。

 この日の夕食は、モモ(チベット風の牛肉餃子)でした。チベット料理では、一番の御馳走です。道場の部屋の窓から納屋が見えるのですが、その一角に薪で焚く竈があります。ラダンの炊事を手伝っているタンゴ・メツェンのイェシェー・ペーマ師たちが、竈の近くでモモを作っています。午後の座の途中からその様子が見えるので、ちょっと気が散ります(笑)。でも、「今夜は御馳走だな」と思うと、念誦にも気合が入ります(笑)。親近行の期間中で結果的に一番きつかったこの日に御馳走が出たのは、今から考えると、修行の一部始終を熟知なさっているリンポチェの粋なお計らいだったのかもしれません。とにかくこの日の夕食は、タンゴ・メツェンのお坊さんたちが何人か加わり、賑やかで楽しいものとなりました。皆が、「ヤマーンタカ一尊は、とても素晴らしいですよ」と言って励ましてくれます。どれほど私が勇気づけられたかは、言うまでもありません。


 こうして6日めに一日15,000返を達成できたので、7日めからは、そのペースを維持して四日間継続することが課題です。相変わらず厳しい時間配分ですけれど、シェーラプさんの言うように口が慣れてきたので、若干の余裕が出て来ます。それで、午後の座の開始時間は、1時でも大丈夫になりました。朝の座は成就法が広作法のため、また夜の座はトルマを供養するため、座の全体の時間に占める念誦の割合が少なくなっています。だから、口が慣れて念誦が少し速くなっても、あまり時間を短縮できません。それでも、念誦中に多少余裕を持てるようにはなります。

 「フィーティー」の真言の場合、私は「30分で千返」というペースを基本にしました。一見するとこれは、かなり余裕のある計算だと思えるかもしれません。なぜなら、例えば1分で50返ぐらいは、少し早く誦えれば普通に可能だからです。しかし長丁場となれば、途中で少し休憩してお湯やお茶を飲んだり、お線香を替えたりすることも必要です。まして用便に行ったりすれば、このペースはかなりギリギリになります。そういうわけなので、まるで電車の運転士のように、時計と回数記録と見ながら、「いま何分の余裕があるか」を時々チェックします。何らかの理由(例えば、成就法の修習に少し手間取るとか・・)で遅れてしまったときは、余裕を回復できるまで、あまり休憩しないで急ぎます。

 念誦回数の記録は、伝統的なやり方なら、チュテンというものを用います。区別できる二本の短い紐に小さい顆が十個づつ付いていて、それを数珠に結び付けておきます。そして、真言を百返誦えると片方の顆を一つ繰り、それが一杯(つまり千返)になるともう一方の顆を一つ繰ります。慣れている行者だと便利なのかもしれませんが、私は決してこれを使いません。なぜかというと、百返と千返の紐を間違えてしまったら、計算がメチャメチャになるからです。顆が緩くなって、自然と動いてしまう恐れもあります。また、数珠にそういう余計なものが付いていると、結構邪魔に感じるものです。そんなわけで、私は小型のノートに正の字を書いて、回数を記録するようにしています。これなら、後からでも行の進み具合を検証できるので、いろいろと便利です。

 こんな話をしていると、まるで回数と時間ばかりに気を取られていたように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。真言念誦のときは、「念誦の所縁」という観想内容があり、それに心を集中して誦えることが肝要です。もちろん、私の如き低いレベルの行者の場合、回数や時間が気になったり、食事のことが気になったり・・・ということは、確かにあります。さらに心が散乱し、何か別なことを考えながら念誦してしまうケースも、時にはあります。それは、正直に申し上げなければいけません。けれども、長時間の真言念誦で、どのようにしたら一番疲れないで済むかというと、実は、念誦の所縁に集中し続けることなのです。他のことに散乱しながら「後まだ何回誦えなければ・・」などと思って念誦するのは、本当に疲れます。それに比べ、所縁によく集中できているときは、ほとんど疲れません。だから、なるべく疲労を感じずに長時間念誦するためにも、教えどおり、所縁に心を集中して誦えるのがベストなのです。

 あるとき、念誦の途中で仕事関係の非常に不愉快な話を思い出し、心がひどく散乱したことがあります。恥ずかしいですね(笑)。さすがに「こんな状態を続けていたら、修行をやる意味がない」と思い直し、「今からこの座の念誦を終えるまで、絶対に心を所縁から散乱させない」と誓って、1時間以上頑張ったことがあります。不思議と、そのときが一番疲れなかったものです。ちなみに、明らかに心が別のことに散乱している状態で誦えてしまった真言は、念誦の回数から除外しなければいけません。これをある程度厳しく適用すれば、もったいなくて、とても散乱などしていられません(笑)。

 所縁の話は、どちらかというと精神的な疲労についてですが、肉体的な疲労にも同じようなことがいえます。身体の疲れをなるべく少なくするには、教えどおり、「大日如来の七法」を守って座ることです。だらけた座り方では、かえって疲れが増大します。特に、背筋をまっすぐ伸ばすことが、一番のポイントです。これによって、縦方向の脉管がまっすぐ通り、風(ルン)の流れがスムーズになります。そのような姿勢を心がけつつ、所縁に意識を集中させて念誦することは、究竟次第の準備としても大変効果的なはずです。無上瑜伽タントラの灌頂を受けて、成就法や究竟次第を学修している方ならば、そうした意味がよく分かると思います。

 親近行の中で多くの時間を占めるのは真言念誦ですが、前にも述べたとおり、本当の意味で生起次第の修行の核心となるのは、粗大と微細の瑜伽です。だから私は、どんなに念誦の回数を稼ぎたくても、この粗大瑜伽と微細瑜伽は、心を集中してきちんと修習するように気をつけました。さほど時間を費やせませんが、一座ごとに最低10分程度はかけて、丁寧に観想したつもりです。そうしておくと、真言念誦のときも、所縁に集中しやすくなります。こういう点を行者自身が自覚していないと、せっかくの親近行も、念誦回数を形ばかり満たしただけで、中身の薄いものになってしまいかねません。


 私が寝泊りしている部屋に、炊事係のイェシェー・ペーマさんが、毎日お湯を持って来てくれます。薪の竈で沸かしたお湯です。これは、チベット語でチュ・コルマといいます。沸騰させたお湯という意味です。それに対し、チュ・ツァポといえば、例えば温水シャワーのような、ただのお湯です。だから、飲み水として頼むときは、「チュ・コルマ」と言わなければ、衛生上危険です。親近行の座では、このお湯を飲みながら念誦すると、喉を痛めないで済みます。

カマド

 朝の座の念誦の途中では、フルーツのミックスジュースが出ます。日本で飲んだら甘過ぎると思いますが、この土地にはちょうど合う味で、疲れた頃に持って来てくれるので助かります。時には、椰子の実のジュースのこともあります。午後の座には、チャイとビスケットが出ます。さりげない気配りは、本当に有り難いものです。

経机と椰子の実

 一日中修行ばかりの生活で、一番リラックスできるのは、昼食後の休憩時間や夕食前の僅かな空き時間にラダンの庭を散歩することです。これほど心の和む空間は、デプン寺の境内で、あまり見かけないと思います。ここは高僧のラダンなので、狭い敷地に僧坊が建ち並ぶ一般のカンツェンとは全然雰囲気が異なり、まさに別天地といえるでしょう。

ドルマ

 リンポチェは、2匹の白い犬を飼っています。スピッツに似た可愛い犬で、ドルマとクティという名前です。この犬たちにも、いろいろな思い出があります。ときどきクティは、私の寝泊りする部屋へ遊びに来てくれます。犬と触れ合うのも、修行の疲れを癒すのに効果的です。

クティ

 ラダンの庭には、椰子の木がたくさんあります。いかにも南国らしい風情です。名前は忘れましたが、無花果に似た甘い果実の木もあります。その実を狙って、ハマヌーンラングールという野生の猿がやって来ます。白っぽい毛に黒い顔のオナガザルです。チベット語では、パルと呼ばれています。これが相当な悪戯者で、樹上を跳び回って椰子の枝を折ってしまいます。お坊さんたちが、Y字形の枝にゴムを張ったパチンコで撃退しようとするのですが、ほとんど効果はありません。多いときには7匹も連れだって、ラダンの庭を荒し回りました。ムンゴットの周辺には、彼らの棲家となる原生林が結構残っているようです。

パル

 10月頃はモンスーン明けで、野生の動物や鳥たちも生き生きとしています。天気は晴れ間が多いものの、まだ少しモンスーンの影響が残っているせいか、急に雨雲が広がってドシャ降りになることもあります。昼間の気温は、半袖シャツ一枚でちょうど快適なぐらいです。夜は結構寒くなるので、ウールの毛布をかけて寝ます。12月や1月になると、雨がほとんど降らなくなり、地面が乾燥して土埃が舞うようになります。しかし、冬で日差しがあまり強くないため、暑くはありません。だから、ムンゴットで一番快適なシーズンは、12月から1月頃だと思います。ダライ・ラマ法王の行幸なども、大抵この時期に行なわれるようです。そして2月頃からだんだん暑くなり始め、3月と4月は灼熱の猛暑に見舞われます。私が最初にムンゴットを訪れたのは、1996年の3月だったので、地獄のような暑さに苦しめられました。同じ南インドでも、大本山セラ寺のあるバイラクッペなどと比べて、ムンゴットの暑さは一段と厳しいようです。5月末になるとモンスーン入りして、恵みの雨が降ります。そして6月から8月は、本格的なモンスーン・シーズンです。連日雨ばかりで、湿度が異常に高くなります。厚い雲に日差しが遮られるため、気温はかなり低下し、同じ時期の東京より確実に涼しいはずです。私が2006年と2008年にリンポチェのラダンでグヒヤサマージャの伝授を受けたときは、いずれも8月だったため、ほとんど毎日雨が降っていました。だからリンポチェやシェーラプさんは、私のことを雨男のように言っています。10月に訪れたのは今回が初めてですけれど、暑過ぎないし、天気もそれほど悪くないので、比較的過ごしやすい印象を受けました。

 ラダンの周囲には、タンゴ・メツェンやタウ・メツェンの僧坊、ロセルリン学堂の少年僧の学校などがあります。朝早くから夜遅くまで、暗誦や問答や勤行の声が響いています。ここが学問と修行の場であることを、改めて認識させられます。私は明らかによそ者のわけですが、直接面識のない僧侶たちでさえ、私の親近行を温かく見守ってくれます。修行の意味や価値をよく知っている人たちばかりの中で親近行を実践できるのは、本当に得難い素晴らしい環境だと、つくづく実感させられたものです。

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護摩壇の曼荼羅;シェーラプ師撮影

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